ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』抄訳/拙訳

 彼女の息子にとって、このことばは途方もないよろこびとなった。遠足が決行されるのは確実で、 何年も待ちわびてきたように思える奇跡のようなわくわくが、あと一夜の暗闇と、一日の航海さえくぐり抜けければそっと触れてくる、という気にさせた。彼は属していたのだ、六歳にしてあの大いなる一族に。ある感情をべつの感情と切りわけておくことができず、いま手許にあるものを、喜び悲しみをともなう未来の展望で染め上げてしまうほかない一族に。そして、そんな人々にとっては幼少期おいても、感覚の車輪が少しでも回転するなら、その瞬間におけるよどみやきらめきを結晶化し、突き刺し、固定してしまうちからをもつものだから、床にすわり、〈アーミー・アンド・ネイビー・ストア〉のイラストつきカタログから絵を切り抜いていたジェームズ・ラムジーは、彼の母が話すのを聞きながら冷蔵庫の絵に天上の至福を贈りあたえていた。それらは歓びに縁どられてあった。手押し車、芝刈り機、ポプラの木の音(ね)、雨のまえの白んだ木の葉、かあかあ鳴くカラス、窓を叩くエニシダ、ドレスの衣ずれ––––これらすべてが彼により心のうちでよく色づけされ区分されていた。彼はすでにその心に私的な暗号や秘密の言語をもっていたから。とはいえ、彼は顔にむき出しのゆずらない厳粛さの色をたたえ、彼のひろい額と熾烈な青い眼が、隙を見せず誠実で純粋であり、人間のもろさを見てわずかに顔を顰めるものだから、彼の母は、彼が冷蔵庫に沿ってハサミをまあるくきちんとなぞるのを眺めながら、彼が白貂の毛皮をあしらった真紅の法服をまとい法廷に座しているのを、あるいは、なにか政治的事件の危機のさなかできびしくも重大な事業を導いているのを想像した。

 

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ジャクマナは明るい紫色をして、壁は白く輝いていた。どうも嘘になるように思えて、この明るい紫を、白い輝きを弄ってしまうのなら、だって現にこう見えているのだから。たとえ流行だとしても、ポーンスフォルトさんがここを訪ねたからといっても、何もかもを淡く麗しく半透明に見るのはどうなのだろう。それに色の背後にかたちがある。すべてがこれほど明瞭に、これほどよく見渡せるのに、筆を手にとった途端、まったく違うものになってしまう。思い描いたイメージとカンヴァスの隔たりにひそむ須臾の間に悪魔が襲いかかりよく泣きそうになり、この構想から作業へ向かう通路を恐ろしいものにする。子供が暗い細道を歩くみたいに。たびたびこんな風に感じて––––勝率のひくい困難な賭けに足掻き勇気を保とうとして––––「でもこうやって見えている、わたしはこうやって見えているから」と言い聞かせ、わずかにみじめなヴィジョンの残滓を胸に留めようするけれど、無数のなにかが総力なしてこれをむしり去ってしまう。それからこうして冷たく風吹くような心地でいると、描き始めようとしても、周囲のあらゆるものが、わたしがいかに取るに足らない、無意味な存在であるかを知らしめる。ブロンプトン通りのはずれで父のため家を切り盛りしているわたしに。だから、やっとのことで衝動を(ありがたいことにいまのところ耐えているけれど)、ラムゼー夫人の膝下へ身を放り彼女に話してしまいたいという衝動を、抑えている。––––でも何を話せばいいのだろう。「あなたに心酔しています」。いいえ、それは真実じゃない。「このすべてに心酔しています」だろうか。生垣に、家に、子供たちに手を振りながら。そんなのばかげている、そんなのありえない。思っていることをそのまま伝えるのは難しい。だからこうして筆をきちんと並べ置いて、話しかける。ウィリアム・バンクスに。

 

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「なんだか急に寒くなってきましたね。太陽がもう、あんまり暖かくないみたい」 あたりを見回しながら彼女はそう言った。たしかに大気は明るさを十分にのこし、芝生もいまだやわらかな深緑色を地にひろげ、家屋はその緑のなかでトケイソウの紫を散りばめられて、青空の高みからはミヤマガラスが物静かな声を落としてくる。だが、空中では何かが活動し、きらめき、銀色の翼をひるがえしていた。やはりもう九月、しかもそのなかばだったし、夕方の六時を回ってもいたのだ。そうして二人はその場を離れ、いつもの方角に向けて庭をぶらぶら歩きはじめた。テニスコートを通り過ぎ、パンパスグラスの茂みも過ぎて、厚く生い茂った垣根が途切れたところに向かっていく。そこは鮮やかに燃え立つ炭の火鉢を並べたごとく、真っ赤なトリトマの群れに守られており、それを通して望む湾の青い水は、より一層青さを湛えて映るのだった。

 

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彼らは夕暮れにいつもそこへやってきた。必要に迫られて。干からびた地に滞った思考を水上へ漂わせ船に乗せ帆を上げるため、ある種の肉体的解放へ身をあずけるために。まず、色彩が脈打つように漲り湾を青く染め上げ、それと一緒に心臓が拡がり體が泳ぐ。と、次の一瞬には逆立つ波の刺々しい黒さに堰き止められ冷たく硬化する。それから大きい黒岩の背に寄りつめ吹き上がる、暮れ方に、不規則に迸る––––だからともすれば見逃してしまうし、見えれば幸いな––––白い波の噴水。それを待つあいだ、青ざめて半円に広がる砂浜に波が、次から次へと幾度も砕け真珠貝色の薄膜を押し流すのが見えた。

 

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バンクス氏は「彼の仕事を考えてみて」とリリーが語気を強めるのが好きだった。それに思いをめぐらせてきたから、何度も、何度も。「ラムゼーは四十路までに最良の仕事をした人物のひとりなんだよ」と、どのくらい口にしただろう。ひとつの小著によって哲学に画期的な貢献をしたとき、彼はまだほんの二十五だったんだ。それからは多少これを展開したり、繰り返したりするくらいだったのだけれど、それがなんであれ決定的な貢献をする人物はごく僅かだろう。と、彼は語り梨の木のそばで立ち止まった。その姿は身嗜みが整っていて、綿密な几帳面さ、洗練された判断力を湛えている。いきなり、彼の手振りに解き放たれたかのよう、リリーのバンクス氏に募らせたイメージの重みは突き上げられてはこぼれ落ち、これまで彼に抱いたあらゆる感情へと重々しく雪崩れた。これがひとつめの感覚。それから靄のなか立ちのぼる、彼という存在の本質。これがもうひとつの感覚。

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彼女は目を上げた――いったいどんな悪魔に憑かれたのかしら、この子は、いちばん下の子で、大切にしてきたのに?――そして部屋を見回し、椅子に目をやって、まったく、おそろしいくらいボロボロ、と思った。椅子の腸 [はらわた] が、なんてアンドリューがこのあいだそんな風に言っていたけれど、床じゅうに散らかっている。でも、どうなるっていうの、と彼女は自問した、新しい椅子を買ったとしても、それも結局冬のあいだに駄目になっちゃうんだもの、だってその時期にこの家を世話してくれるのはお婆さんひとりだけなのに、湿気がひどくて、ほんとうに家じゅうポタポタしずくが垂れるくらいなんだから。気にしちゃ駄目ね。家賃はきっかり二ペンス半だし、子どもたちもここが大好き、それに夫にとっても良いことでしょう、三千マイルも、いえ、正確にいえば三百マイルだけど、いつもの書斎とか講義とか弟子たちからそれだけ離れていられるのはね、お客様をむかえられるくらいの広さもあるし。マットとか、簡易ベッドとか、ロンドンで使い尽くして幽霊みたくかたなしになってしまった椅子やテーブルなど――それもここでは十分役に立ってくれる。あと、写真が一、二枚に、本。本っていうのは、と彼女は思った、じぶんで増えるのよね。でも、どうしても読む時間が取れない。ああ、まったく! 贈ってくださった本、しかも詩人が直筆で、「その願い服さるるべき女性へ」とか……「幸より高き我らが時代のヘレネへ」とか……そんな献辞を入れてくれた本でさえ、恥ずかしいからだれにも言えないけれど、実は読んでいない。それに『精神 [マインド] 』に載ったクルーム [George Croom Robertson] の文章や、ポリネシアの野蛮な風習についてのベイツ [Henry Walter Bates?] の本など(「ねえ、いい子だから、じっとしてて」と彼女は言った)――どちらも灯台へ持っていけるような本じゃない。この先、家はみすぼらしくなるばかりだろうから、どうにかしなければ、と思うこともある。子どもたちに、きちんと足を拭いてビーチの砂を部屋に入れないよう教えこむとか――それだけでも違うはず。でもカニはしかたないわね、アンドリューがほんとうにそれを解剖したいって言うのなら、ジャスパーも海藻からスープがつくれるって信じているみたいだし、やめさせるわけにいかない。

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それからローズの貝や葦や石さまざま。だって、わたしの子どもたちがめぐまれている才能は、まったくばらばらなのだから。その結果がこれなのね––––と、彼女はジェイムズの脚に靴下をあてながら床から天井まで部屋の全体を見渡してため息をついた––––夏が来るたびごとにボロボロになっていく。マットはすり減って、壁紙はひるがえって。もう誰もそこにバラが描かれているなんてわからないでしょうね。それに、家のどのドアもずっと開けっぱなしになっていて、スコットランドのどこを探しても閂を直してくれる鍵屋さんがいないとしたらもうどうしようもない。額縁に緑のカシミアのショールを掛けて、だからなんだっていうの。二週間もすれば豆スープ色になってしまうのに。でも、気がかりなのはやっぱりドア。どのドアも開けっぱなし。だって耳をすませると、客間のドアも、玄関ホールのドアも、ひょっとして寝室のドアまで開いているんじゃないの。踊り場の窓も開いてる、だって私が開けたんだから。窓は開けて、ドアは閉める。単純なことなのに、なんで誰もわかってくれないのだろう。

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だが、それはそう見えるだけのことなのか、と人々は問うた。あの外見の背後に––––彼女の美しさ、輝かしさの奥には、いったい何があるのか? そういう噂もあったのだが、夫人の結婚式の一週間前に、昔の恋人の誰かがピストル自殺でもしたというのか、あるいは結局のところ何が隠れているわけでもないのか? 夫人がたえず身にまとい、どうしても突き崩せずにいる、あの類比のない....

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でも、そう見えるだけなのだろうか。なにか背景があるのでは––––彼女の美しさ、輝かしさの奥に。脳みそを吹き飛ばして、夫人の結婚式の一週間前に死んだのかもしれない––––以前の恋人かだれかが。そんな噂もある。あるいは何もないのだろうか。ただ無類の美しさだけがそこにはあって、彼女はただそこにいて、彼女を葛藤させるものは何もないのだろうか。というのも、彼女にもきっと、打ち解けて、たとえば大恋愛や失恋のこと、挫折した夢のことを話す機会だって幾度かあったはずなのだけれど、そこで彼女がどんなふうにして物事を理解し、感じ、身をもって体験してきたかを話してもよかったはずなのだけれど、彼女はやっぱり話さなかった。彼女はいつも沈黙していた。そう、彼女は理解していた––––学ばなくとも理解していた。彼女は素朴だったから、賢いひとが見誤るものを、すっと見抜いた。彼女はひとりひたむきな心があったから、小石のようにまっすぐに落下し、鳥のように正確に着地した。彼女の精神はこうしてさっと舞い降り、真実を突き止めた。ひとを喜ばせ、気楽にして、心を支える真実を。––––と、これも錯覚かもしれない。

 

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 「誰か過てる者あり」––––と、再び彼は言った。テラスを闊歩して、行ったり来たりしている。
 だが、その調子はなんと様変わりしまったことだろう。「六月に調子のはずれる」カッコウみたいに。

 ひと安心、彼は私的領域を取り戻した。立ち止まりパイプに火を点けると、窓辺に妻と息子をちらりと見た。特急列車で読んでいた本の頁からふと顔をあげ、挿絵のように農場や木やコテージの一群を眺めることで、その活字を押された頁の確からしさを確かめて、気をもちなおし、満ち足りて、再び読書にもどることがあるように、いまは息子も妻もはっきりとは見えないけれど、それでもそうして眺めることで、気をもちなおし、満ち足りて、いま、おのれの優れた知性の全精力をもちいて、難題を完全明晰に理解しようと努めることが神聖なものとなるのだ。

 

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ゼラニウムの溢れ咲く石鉢のわきで、彼は身動きひとつしなかった。彼は自問した。あらゆる敢行のあと、ついにはZを戴くに至るひとは数千万人のうちどのくらいだろうか。希望なき希望をいだく隊長はそう自問するだろう。それから答えるだろう、彼のあとに続く探検隊に引け目を感じることなく「おそらくはひとり」、と。一世代にひとり、と。彼がその一人ではないとしたら、非難されるべきだろうか。これまでひたむきな苦労を重ね、惜しまず心血を注いできたというのに、もはや力尽きるまでに。では、名声ならどれほど生き残るだろう。死のきわに瀕した英雄なら、死を前にしてこう考えることも許されよう。わたしの死後、わたしについてひとはどのように語るだろうか。名声はきっと二千年は続くだろう。だが、二千年がなんだというのか(ラムゼー氏は生垣を眺めながら、皮肉をこめて問うた)。なんだというのか、実際、山頂から果てなくひろがる月日を見下ろすことができたとしても。誰かがブーツで蹴り飛ばすたんなる石ころでさえ、シェイクスピアよりも長く生きるだろう。わたしの微かな灯りは、わずかながら千年、二千年は光を放つだろう。それからより大きな灯りに混じり、そのなかに落ち着くだろう(彼は暗闇を、小枝の絡み合いを見つめた)。では誰が、この希望なき一団の隊長を責めることができよう。この一団は、月日の果てなきひろがりや、消えゆく星辰を眺められるほど高く登ったのだ。彼の死が、力の限りを尽くした彼の手足をこわばらせるより疾く、わずかな意識を頼りに感覚を失った指を額にあて、胸を張る姿勢をとっておいたのだ。だから、次の探索隊が来たときに、そこに務めをまっとうした良き戦士の姿をみとめるだろう。ラムジー氏は胸を張り、石鉢のわきに真っ直ぐに立ち尽くした。 

 

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チャールズ・タンズリーはあなたを当代きっての形而上学者だと思っていますよ、と彼女は言った。いや、そんなことではない。私に必要なのは理解だ。私はどうしても確信したい。私もまた、生の鼓動のなかに生きているのだと。必要とされているのだと。それもここだけじゃない、世界中で。針をきらめかせ、自信に満ちて姿勢よく彼女がそこにいるだけで、客間を客間たらしめ、キッチンをキッチンたらしめ、すべてに輝きをあたえる。どうかのびのびと、いったりきたりして、こころたのしんでください。彼女は笑って、編みつづけている。彼女のひざもとにしっかりと立ち尽くして、 ジェイムスはその精気にふれた。彼女の精気のすべてがゆらめき汲みつくされるがはやいか、金管楽器のような口先がかき消してしまうのを、男のさもしいシミタールが無遠慮にいくどもうちつけては共感を乞うのを、ジェイムスは感じた。