Choreography 5 「私物化される政治と国家」

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クィア・ラップ。PVも素晴らしい。

もしJP the Wavyがこの曲を意識して「超wavyでゴメンネ」と言ってたならなかなかいいなあと思うけど、多分違うよね。

 

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コリン・クラウチの文章がいまの政治状況の説明として最適だったので書き抜く。続きは後日。

 

要約

・現代の政治は新自由主義によって支配されている

・とはいえ、新自由主義イデオロギーを党是としている政党は小さい(日本では例えば維新の会)

新自由主義は本来敵対する考えである右翼思想をもつ政党と手を組む

・現代の政治は大企業の富に支配されている(企業によるロビイング)

新自由主義的統治とは市場による統治ではなく「企業の力による統治」

新自由主義は、政治力と経済力の分離を主張した古典的な自由主義(例えばアダム・スミス)と矛盾する

・この状況が続けば続くほど、企業の政治力は増大し、貧富の格差は大きくなる

 

新自由主義とは何か

 

 現代の政治は「新自由主義」によって支配されています。新自由主義とは、私たちの身に起こることのすべては市場の力学によって治められるべきで、政府は人びとの生活の不平等さをあまり変えようとしてはいけない、という信条です。この勢力は権威を得ているようで、それに対抗することは非常に困難なように見受けられます。しかし、奇妙なことに、私たちの民主政治において、新自由主義イデオロギーをもっぱら党是としている政党は、まずとても小さいのです。純粋な新自由主義政党が議会の中で多数議席を占めることはおろか、連立政権の中で支配的になることさえほとんどありません。米国の共和党や英国の保守党は、純粋な新自由主義政党ではないかと考える人もいるようですが、違います。そうではありません。

 ひとつの政党の中で支配的になるために、新自由主義は往々にして、新自由主義が本来意味していることに強く反対している勢力と手を結ばなければならないのが実情です。たとえば、米国の共和党は、一連のキリスト教原理主義イデオロギー––––異教徒に対する「聖戦」を正当化したり、教育現場から進化論をしめだしたりする狂信的反動––––と、市場による支配とは全く関係のないその他の右翼思想との組み合わせでできています。英国の保守党は新自由主義政党ですが、「国民」という考えに重きを置く強いイデオロギーを保ちつづけてきた政党でもあり、物事が困難になってくると外国人に対する敵愾心を票集めに使う傾向があります。しかし、ナショナリズムや排外主義などは新自由主義の立場ではありません。このように、新自由主義は大政党の中で他のイデオロギーの背後に隠れているか、ドイツでのように、大衆の大きな支持を得ることはまずありえない、とても小さな政党として存在しているのです。

 

企業が政治を支配する

 

 したがって、私たちの政治における新自由主義の政治力の主要な基盤は、政党支配にはありません。その政治力は、実は政治の場の非民主的な部分に依存します。では、政治の場の非民主的な部分とは何なのでしょうか。どんな政治システムも、民主的な部分だけでできているわけではありません。複雑な大衆社会において、すべての過程を民主的に決定することはできないからです。問題は、どちらの部分が大きいかです。私たちの政治システムにおいて、どの部分が民主的で、どの部分に民主制の手が届かないのか。今の私たちの問題は、その非民主的部分––––その中でもとくに大企業の富によって支配されている部分–––––が大きくなりつづけることによって、民主政治の役割が困難に瀕しているということです。

 それが、私が自らの著者(『ポスト・デモクラシー』)で書きたかったテーマです。そこで説明したように、ポスト・デモクラシーでは、選挙も政治論争も議会のような民主的な機関もすべて機能しつづけます。けれども、何となくシステムのエネルギーや政治のダイナミズムが失われたかのようになるのです。選挙戦の風景は儀式化する一方、実際の戦いと政策形成は、政治エリートと経済エリートが会う密室で行われます。ヨーロッパ、北米、日本といった民主制の進んだほとんどの国々では、まだポスト・デモクラシーの状態になりきっていない。なぜなら、民主政治のシステムは、まだこれらのエリートたちに対してショックを与えることができるからです。二〇〇三年に刊行した私の本では、「私たちはポスト・デモクラシーへの途上にある」としか主張していません。

 しかしながら、二〇〇八年の金融危機リーマン・ショック)は、私たちがポスト・デモクラシーへの道程をもっと進んだことを示しました。危機は金融システムの誤った行いによって引き起こされたにもかかわらず、金融システムを救うためになされた解決とは、普通の市民と福祉国家––––社会保障、雇用、教育などに政府が積極的に関与し、国民生活を下支えすることを志向する国家のあり方–––––などを犠牲にすることでした。金融システムはその政治力を誇示することができました。というのも、金融システムが過ちを犯して自ら困難に陥ったときでも、私たちはそれを救わなければならないからです。私たちは金融システムの成功にすっかり依存するようになってしまっているので、私たちの民主政治はそれに抵抗できません。民主政治が企業の力に抵抗できるかどうかは深刻な問題です。

 新自由主義のレトリックは、いつも市場のことを言います。しかし私は、新自由主義が意図するところは、本当は市場による統治ではなく、企業の力による統治なのだと思います。企業は純粋な市場の力学を通じてではなく、政治への影響力を通じてその権力を行使しようとしているからです。自由主義経済学の理論に従えば、経済力と政治力は極めて厳格に分離されていなければなりません。アダム・スミスが初めて自由市場経済という思想を理論化したとき、彼が邪魔だと感じたことのひとつは、彼が見た一八世紀のイギリスと他のヨーロッパ地域で、政治力と経済力が結合しているということでした。経済力と政治力の分離が、自由市場経済の条件だと彼は信じました。

 しかし今日、新自由主義の下で私たちが手にするものは、それとは正反対のものです。いくつかの重要な分野で企業はとても大きくなり、政治力を行使しうるだけの資源を持っています。市場経済の問題のひとつは、強い規制なしでは経済資源は政治資源に転化するということです。つまり、莫大な富があればそれを政治に影響を与えるために使うことができるということです。市場規制がますます緩和される社会では、企業側にますます政治力が蓄積します。その力の行使がさらなる貧富の格差の拡大を招き、それがさらなる政治的影響力の不平等を導いていくのです。

 

 コリン・クラウチ「私物化される政治と国家––––新自由主義に乗っ取られた"自由"」『いまこそ民主主義の再生を!––––新しい政治参加への希望』(岩波書店)より