History of Philosophy 5 いいか、豆を食うなよ

 

 

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  LAを拠点に活躍したサックス・プレイヤー、プロデューサー、モンク・ヒギンス。マッド・リブがサンプリングしたことで知っていたくらいだが、原曲が素晴らしかったので。

 

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 素数について考えをめぐらすとき、素人ながらも数の神秘に触れることができる。なぜ素数に終わりがないのか、なぜその出現に規則性がないのか。こうして素数はある意味では異物として数字のなかに横たわりながら、しかし、あらゆる数の素として、全ての数は素数の掛け合わせでできている。

 ピタゴラスはこうした数の神秘を信じきった宗教者であり、数学者であった。だが、ピタゴラス自身も、ピタゴラス学派の初期の担い手たちも著作を残さなかったし、当時の人びとでさえ彼らの教えを知ることは困難であったという。ピタゴラスの宗教は密教だった。

 ともあれ、伝えられているところによれば、ピタゴラスの宗教の主な教義では豆を食うことが許されていなかった。また、落ちたものを拾ってはいけなかった。白いオスの鳥に触ってはいけなかった。パンをちぎってもダメだし、かといってまるまる全体のままでものを食べることも許されなかった。このため、豆を食べたいひとたちや、パンをちぎって食べたいひとはこのピタゴラス教団に反抗したのだった。

 わけがわからないかもしれないが、この豆を食うことが罪とされた宗教にはもうひとつの主要な教義がある。それは、われわれ個人の魂を「浄め(カタルシス)」によって「輪廻転生」という「永遠の罰」から救済し、本来の神性を回復し、天上の至福の生に帰一することにある。

 この「カタルシス」の教義に直結したのが数学とその調和(ハーモニー)であった。アリストクセノスが伝えるところによれば「ピタゴラス学派の人たちは、肉体の浄めには医術を用い、魂の浄めには音楽を用いた」といわれる。ハーモニーがとれた音楽によって、魂が救済される。ここでの音楽的なハーモニーとは、数学的な「比」の美しさであって、感覚的に聴きとられる音の美しさとは無関係であった。感覚を超えたところに数的コスモス––––この語はのちに「宇宙」という意味になるがギリシア語では「調和」を意味する––––があり、同語反復的になるが、この数的コスモスこそが万物の原理なのだ(ただし、これと豆の禁止との関係は謎)。

 だから、瞑想が、観想的生が重要になる。現実の経験的生活よりも、それを高みから眺め下ろし、その背後にある数学的な調和を明るみに出すことの方が重要になるのだ。ただしその営みは無味乾燥なものではない。そこにはある種の熱狂がある。「理論(theory)」という語は元来、「情熱的で同情的な瞑想」という意味を持っていたそうだ––––オルフェウス教からの影響を考えねばならない。

 このよくわからない教えを説いたピタゴラス哲学史における影響は、この教えの奇矯さに反して大きい。ある意味で一神教的な、この世界を超越したものへの信。そしてそれと同一化しようとする瞑想的な生を開いたのだ。長くなるが、ラッセルの哲学史から引く。

数学というものが、次のような信念を産むにいたった主源泉である、とわたしは信じている。すなわち、理性のみによって理解しうる感覚を超えた世界というものや、厳密で永遠なる真理が存在するといった信念なのである。幾何学は厳密な円をとり扱うけれども、いかなる感覚しうる対象も厳密には円ではない。コンパスをどれほど注意深く使うとしても、なんらかの不完全さや不規則性が入りこんでくる。このことから、すべての厳密な推理は、感覚しうる対象とは違った理想的な対象に適用されるものだ、という見解が暗示されてくるのだが、さらに一歩つっこんで、次のように論じることは自然であろう。すなわち、思惟は感覚よりも高貴であり、思惟の対象は感覚知覚の対象よりもより実在的である、という議論である。永遠に対する時間の関係、ということについての神秘的な教説もまた、純粋数学によって補強されてくる。というのは、数というような数学的対象は、たとえそれが実在的であるとしても、永遠的であって時間の中にはないからである。このよな永遠的対象は、神の思惟であるとみなし得る。したがって、神は幾何学者であるというプラトンの教説や、神は算術に耽溺しているというジェイムズ・ジョーンズ卿のような信念が生まれてくる。

 (......)思想の分野においては、わたしは彼(ピタゴラス)ほどに影響力の大きかったひとを、他に知らないのである。わたしがこういうのは、プラトン主義であると見えているものが、よく分析してみると実はその本質において、ピタゴラス主義であることがわかってくるからなのだ。知性には顕現するが感覚では捉え得ない永遠なる世界という全概念が、ピタゴラスから派生しているのである。彼が存在しなかったならば、キリスト教徒たちはキリストを、言葉(ロゴス)とは考えなかったであろうし、また彼がいなければ、神学者たちは神とか不死ということの論理的証明を探究しなかったであろう。

 

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 哲学史の更新が遅れたのはひとえにピタゴラスが難しかったからだ。彼にはオルフェウス教からの影響があり、これが手強い。オルフェウスに関しては別の機会に譲りたい。また、ピタゴラスとほぼ同時期に活躍した孔子ブッダについても日を改めて考えたい。