Choreography 6 本をでっち上げるには

 

 以下は、プルーストをほとんど読んだことがないヴァレリープルーストについて綴った文章である。

 

 マルセル・プルーストの偉大な作品はかろうじて一巻読んだことがあるだけで、彼の小説技法すら私にはほとんど考えも及ばないものであるが、それでも、少しばかり『失われた時を求めて』を読んだ経験からだけでも、文学がどれほど例外的な存在を失ったかは分かる。文学だけではない。それぞれの時代において文学にその価値を付与する者たちがつくるあの秘密のソサエティにとっては、この喪失はさらに大きい。

 しかも、この広大な著作を一行も読んだことがなくても、その重要性に疑いの余地がないことは、ジッドとレオン・ドーデと言う似ても似つかぬ精神の持主がどちらもそれを認めていることから明らかである。よほど確かな価値があるというのでなければ、これら二人の意見が一致するというこのまれな事態は起こらない。この点ではわれわれは安心していいはずである。彼らがどちらも晴れだというときは、天気はまちがいなく晴れなのだ。

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 他の論者は、かくも力強、かくも繊細な作品について、正確に、深い洞察をもって語ることだろう。また別の論者は、この作品を考え出し、それを栄光へと導いた作家がどのような人間であったかを説くかもしれない。しかし私はもう何年も前に瞥見しただけである。私はここで、取るに足りない、ほとんど書くに値しないことしか書くことができない。このオマージュは、永遠に残る墓に手向けられた一輪のはかない花にすぎない。

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 プルーストの作品の面白さはひとつひとつの断片にある。彼の本はどこを開いても構わない。ある箇所がもつ生命力は、それに先立つ箇所に依存しているのではない。既存のイリュージョンといったものに依存しているのではないのである。この生命力は、テクスト独断の活動とでも呼びうるものから来ているのだ。

 

 ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳(筑摩書房)より孫引き

 

 学ぶべきことは多い。

 まずヴァレリーほどのひとが––––ヴァレリーだからこそかもしれないが––––書くべき主題についてほとんど読まずに書いていることである。それでよいとバイヤール氏は言う。なぜなら本を読むのは、書くため、この一事に向けられるからだ。わたしたちはしばしば忘れがちであるが、誰にでも書く能力があり、権利があり、義務さえあるのではないか。いずれ、書くことの敷居を下げてもよい。これをヴァレリーから学ぶことができる。

 次にレトリック。一貫した誇張法で押し通している。しかも読んでもいないのに、ジッドとレオン・ドーデを権威として持ち出して称賛している。どうもあまり許されるべきでないことのように思ってしまうが、ヴァレリーがやるならまあいいのだろう。「彼らがどちらも晴れだというときは、天気はまちがいなく晴れなのだ」との《異質連立》には唸るものがある。レトリックのためにプルーストを持ち出しているとさえ読める。

 最後に、ある対象を読まずに自分の思考やレトリックを展開する言い訳にしてもよいと言うことだ。これはヴァレリーにのみ許されたことなのだろうか。そんなはずはないだろう。ピエール・バイヤールのこの本––––実は白状すればわたしはこの本をほとんど読んでおらず目を通しただけなのだが––––が伝えるのはそんなところだ。

 本について語るときのバイヤールによる「心がまえ」を置いておこう。 

 1 気後れしない

 2 自分の考えを押しつける

 3 本をでっち上げる 

 4 自分自身について語る

 無論、普通なら許されない。ここでのバイヤールの独特のニュアンスは、「かれの著作には精神分析からの影響がある」とだけ述べておけば、このブログを読むひとなら理解されるだろう。

 余談だが、バイヤールはルジャンドルが日本に輸入されるのに実は一役買っている。