Cauchemar 2 / 遠い日のぼやき

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前後はもうわからない。確か祖父の声が、遠くで響いた。あんまり金にならないことするなよ、みっともない、大したこともない役柄で。あれは祖父の家だったか、受験のために日本語の勉強をしていた(いや、むしろさせられていた)ところを慌ててこたつから這い出してきて廊下へ入るとすぐ左手に楽屋がある。Sはすでに準備を終えていた。もうはじまるよ、さあ、早く。遠い記憶(それは未来への予知あるいは預言的な警告かもしれない)のなかでいつも時間がわからない。台本があったのかもわからない。が、確か通行人を演じることになっていた。楽屋には鏡が六枚ある。普段の紺のチャンピオンのスウェットとグッドモーニングと書かれた黄色いTシャツでいいやと着替えを済ませて急いで向かう。学校の体育館であろう、しかし案外格式ばった舞台が整っており、代官山か青山にあるような少し洗練された内壁と照明が気分を高揚させる。体育座りで見守る観客、しかし舞台からはよく見えないので、映画館のような椅子で鑑賞するか、あるいは、レストランのように配置されたテーブルで食事を取りながら優雅に眺めるかしているのだと思った(これも間違いではない)。自分の前の公演の内容は忘れてしまった。気づけば舞台へ通されていた、何をするのかもわからないまま。Sは住人の役であった。黒人の男が舞台の左手、上から二段目のところへ鎮座していた。ちょうど舞台の右手で黒人と線対称になるように座った。どっしりとブルージーンズとシャツを着込んでいた彼はそこでなにをしていたのだろう。急いでこちらへ、と招き寄せられると黒人の男は陽気にそして自分は間違っていなかったと言わんばかりに自らの位置を譲った。 Sは確か住人の役だ。黒人の男がワインや諸々の食事が設えられた白人の女の向かい側に座るとSとの数語の会話とともに舞台がはじまる。コメディか、ということは俺は売れない芸人だな。そう思っていたら、黒人の男が英語で何か言う。笑いながら意味の為さないデタラメを英語調で返すと、少し訝った顔をした。白人の女が、ここは奢りだからね、気にしなくていいわ、と、インド風(?)に手を合わせてこちらへお辞儀をすると黒人男も笑顔だ。こちらもアジア人流に手を合わせてお辞儀をすると、なんとかうまく行ったようで、その後1分ほど黒人の男と白人の女のあいだでやりとりがあって、われわれの舞台は終わった。外国の有名アーティストの公演のサポートか前座のような役柄だったのだろうわたしは。すると、次はバラエティ番組のようなものがはじまる。役者陣が前に座り芸人が質問する。特に内容がなかったし、早く帰りたかったので客席で体育座りをしていたわたしは端にいたSへその旨を伝えると次のわれわれの出番は一六時何分からだから、俺は残ると言ったが、わたしがまだ二時間以上空きがあるぞと言うと、二人で楽屋へ向かうことになった。たったあれだけの役で16000円ももらえるなんてな、と言ったが、何かの勘違いで、二人で5000円であったらしい。楽屋へ戻ると報酬をうまく分けれるかな、とスイカを取り出した。わたしはそれを二等分に切り分けると明らかに大きい方をSが取った。そこで三人目の男が楽屋へ入ってきて、俺の分はどこだ、と尋ねる。そうかそうか忘れていたよ、すまんな、大き方のスイカを二等分にするからそれでどうだ、そういやお前って何かしてたか、まあいいか。三人でスイカを食べる。それが今日の報酬であった。祖父の言うことも間違ってはいないような気もする。

 

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 貧乏な親の家に生まれたこと。生活に不可欠なもの、それももっとも安い値段で買うとき以外はつねに罪悪感をもつこと。そのような罪悪感を日々もち続けねばならないこと。それがあたりまえで、お金には苦労し続けねばならない。ありがたみを、レトルトカレーひとつ買うのにも、ヘアバンドひとつ買うのにも、実感しなければならない。それが当たり前、そういう教育。贅沢は体に悪い。贅沢は罪。理解はできる。けど、ときどき辛い。

 こういう気持ちのひとがたくさんいるのだろう。それがネオリベ的な価値観と合体して、「自分がわるい、貧乏なのが当たり前だから仕方がない」となるか、「金を稼いでやる、どんな手を使ってでも。世の中は金だ。自分の力で金を稼いで、自分の努力のおかげなんだから、誰にも文句は言わせない。貧乏なのはそいつのせいだ」となるか。どちらもほとんど運なのに。誰を羨むわけでもない、誰を恨むわけでもないが、こうした心境がたびたび訪れるのはきっと生まれの低さだろう。

 高貴であろうと努めているけど、それが虚しくなることがある。他の家の当たり前はうちにはない。「でも、もっと苦労している家だってあるんだからね」。

 ある思想家が「親子は"substancial"に類似している」と言っているらしい。そのことがときどきよくわかる。生まれ持ってしまって、取り外しのできないもの、もはやそれなしには生きれないというほどに染み付いてしまった思考の習慣、思考の堕落。自分は誰に似たのかと、鏡を見る。

 

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 祖父の死目に会わなかった。会うつもりもなかった。恨んでいたから。祖父が危篤のとき、俺は代官山で踊ってた。死んだって電話がきて、電車もないのでタクシーで地元まで帰った。冷たくなっていた。悲しくなかった。どうでもよかった。血も繋がっていなかった。金で繋がっていた。でもその金で生きていた。ただ煩わしかった。父方の祖父母は、父が死んだときに、母が葬式に来ることを許さなかった(離婚していたから)。だが、祖父が死んだときは葬式に出ることについてなにも言わなかった(と思う)。祖父の死は悲しくないが、いま思えば、祖父自身が悲しい人だった。三重県に生まれ、東京に出てきて自分で会社をつくり、通っていたキャバクラ(か、風俗か)で働いていた二人の子供がいる女性と事実婚することになった。彼にとって全ては金だった。誰に対しても金を与え、その見返りに恩義を求めた。血の繋がらない孫との関係もそういうものだった。ふたりのあいだには金が通っていた。贅沢をさせられた。母はこれを怒った。贅沢させないでください、うちは貧乏ですから。貧困を経験したことはない。うちの家はたくさん借金していたけど、借金取りがきた記憶も一度あるかないか。貧乏だ、借金があると言い聞かせられていただけだ。それでも、貧困がどのように人間を形成するのかを知ることにはなったし、それで苦しんだこともある。生まれが低いというのはそういうことなのだと思う。