History of Philosophy 6 終わることの終わらなさ 

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 ソクラテス以前の哲学者たちのことばは、かなりの部分が消え失せた。歴史の試練にかけられて。残っているのは、以後の哲学者たちが批判的に引用する部分だけ。

 こんな事情だ。だからヘラクレイトスについても、いくつかの断片だけが形をとどめている。

 プラトンヘラクレイトスのことばを次のように引く。

 何者も永久に存在することはない。あらゆるものは生成している。

 アリストテレスも。

 何者も確固として存在してはいない。

 こうして断片をいくつか摘んでくるなら、しかし、ヘラクレイトスの思想もひとつの輪郭を描出することはできるだろう。それは終わることの終わらなさ、変化することの不変性である。その終わらなさを彼は燃えさかるのなかにみる。

 すべてのものにとって同じであるこの世界は、神々や人間のいかなる者が作ったものでもない。世界はいかなる昔にも、現在も、また将来も常に生きている火なのであり、その中でさまざまな量が燃えまた消えてゆく。

 こうした変化の不変性は、タレスアナクシマンドロスアナクシメネスにも見られたのではないか、という向きもあるだろう。しかし、ヘラクレイトスにとっての変化は単なる移りゆきではなく、アナクシマンドロスのような諸力の打ち消しあいの応酬ではない。ヘラクレイトスの変化とはすなわち、対立の、戦いの謂である。

 戦いは、すべてのものの父であり、すべてのものの王である。戦いはあるものを神々とし、あるものを人間とし、またあるものを束縛させ、あるものを自由にさせる

 こうした戦闘的な信条から導かれる説は、対立物の結合である。曰く。

 対をなしているものとは、全体なるものと全体ならざるものであり、一緒にされたものと離れ離れにされたものであり、また調和せるものと不調和なものである。一なるものはすベてのものから成っていて、すべてのものは一なるものから派生する。

 神は昼と夜であり、冬と夏であり、戦争と平和であり、過食と飢えである。しかし人間は、火と同じように、薬味を混ぜるとさまざまな形をとり、それぞれの場合の風味に応じて名がつけれられる。

 なんと豊かな源泉であるか。ここに、対立物の弁証法によって歴史が展開したと考えるヘーゲル哲学の萌芽がみられる。だけでなく、善も悪もいつかは争い合って大海へと流れ入り、ついに新たな善、新たな悪が生まれ出るとするニーチェの超人的な発想の先触れもみることができる(ヘラクレイトスはめちゃくちゃ口が悪く、先達をこき下ろしまくるという点でもニーチェに似ている笑)。

 このような語りを彼は神からのお告げ、というスタイルで語る。そこには「その声によってよく千年の彼方に達する」(断片九二)という意図があったと思われる。ヘラクレイトスの生年が紀元前500年ごろとされていることから、よく2500年もの彼方まで届き、こうして遠く東洋の一学生によって密かに称賛されるに至ったのだから驚きである。

 とはいえ、彼にとっての神のことばは、魔術的なものではない。ヘラクレイトスは自らの哲学語りを、「ロゴス」(これは理性とも、言葉とも訳すことができる)と位置付けた最初の人であるのだから。この理法の言説にしたがって考えれば、以上のような「終わることの終わらなさ」は自明であるとしたのである。

 

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 もとより習慣をつくるのが下手な質だ。このブログもかなり長く止まっていたけれど、ようやく再開できそうだ。次に挙げるオウィディウスの格言を座右に置いて、続けることを第一の目的として精進していきたい。

 Abeunt Studia in Mores.(勉学はいつか習慣へ転じる)