哲学に居場所はあるか

 哲学にまだ居場所はあるだろうか。ある、と答えるのは簡単だ。しかし、哲学的知見、とりわけ形而上学については、われわれはもはや系譜学的、人類学的、宗教学的興味しかもちえないのではないか。

 シェリングは自然哲学の立場から超越論的哲学を批判する文脈でこのように言う(形而上学批判それ自体が現在から見れば別の形而上学に依拠している、ある種の悲痛なテクストである)。

 

「生」そのものはすべての生きている個体に共通であり、さまざまな個体を相互に区別くるのはその生命の種のみによる。したがって、生の積極的原理は特定の個体に特有ではありえず、被造物全体に広がっており、あらゆる個体を自然の共通の息吹として貫いている。

 

 これは紛れもなく、自然哲学である。が、自然科学ではない。自然科学としてはこのようなアニミズム的な説は否定されているし、すでに無用となっている。この意味で、有用性を旨とする科学にとってシェリングは不要である。

 では、こうした哲学はもはやこの有用性の空間(現代の科学的世界のことだ)のもどこにも居場所がないのだろうか。あるとしても、系譜学的な興味しかそそらないのだろうか。おそらくそうなのだろう。ある時代のエピステーメーの象徴として、文学的テクストとして読み解くことで、人間についての理解を深めることを可能にするだけなのだろう。

 だが、そうだとすれば、なお、そこにふたたび哲学の余地が残されている。研究「対象」としての哲学ではなく、研究「主体」としての哲学の余地が。すなわち、人間にとって、この世界が一種のメタバースであり、人工的に(といっても第二の自然と言いうるほど必然的にみえる恣意によって)生み出された詩的イメージと詩的言語の残滓として配置された網目を通してしか「世界」がありえないとするなら、いかにして「世界」自体が構成されているのかを問う厳密な学としての哲学、(ローマ法の格言に基づくなら)「世界」を構成するもっともひろい意味での「法」をめぐる正義の学としての哲学の余地が。だが、この余白はいま危機に瀕している。それは、解釈の余白を埋め、テクストをじかに現実へと接続する原理主義が蔓延る現代の政治的状況と相関しているだけでなく、原因であるかもしれない......。