いつかの講義で––––イプシロンとシステム・ニヒリズム

以下、あるところに書いたメモを補足しつつ再掲。

 

昨日(たしか2022年の6月はじめ)はとある大学で講義だった。コロナ危機について、即興で話をしたのだけど、なかなか良い感じになったので個人的なメモとして軽くまとめる。

 

1. ジャン=ピエール・デュピュイの思想をめぐって。破局はなぜつねに想定外なのか? それを、いかに回避できるか?

2. 今回のキーワードはイプシロン。0.0000001のような「無視できるほど小さい数字(vanishingly small number)」のこと。科学的思考はイプシロンを無視する。そのことが破局をもたらす。これは結論部に関わる。

3. コロナ危機。危機=クライシスとは、ギリシャ語の「決定する、分岐する」という意味の動詞に由来する。つまり、ある現在の瞬間に未来が決定的に分岐してしまうような出来事。そして出来事は一回的。しかし、コロナ危機は一回的か? むしろ日々の中に偏在している。間延びしている。

4. コロナウイルスは見えない。対象が見えない。福島第一原発事故後の放射線に似ている。「不安(Angst)には対象がない」(ハイデガー)。わたしたちの生はいま、突発的な危機ではなく、その危機を待機する漠たる不安のなかにある(もちろんその危機に見舞われたひともいるけれど)。

5. カント哲学は時間を空間化した。数直線で示される過去現在未来。しかし、当たり前だけれど、わたしたちが経験できるのは現在のみ。過去は現在のわたしたちの記憶としてある、記録も残る。だが未来は原理的に存在しえない(かろうじて現在のわたしたちの予期としてはあるといえるかもしれないが)。完全な無としての未来。未来への「不安」。現在の「持続」のみが時間である(ベルクソン)。

6. 未来予測の可能性としての統計学。未来の不安への科学的な対処。原発事故が起こる確率は限りなく低い。コロナウイルスで死ぬ確率も低い。1000年に一度の自然災害。科学的には無視できるほど小さい確率。イプシロン

7. ちょっとヘーゲルの話。「真理は全体である」。最強の後出しジャンケン。全てが終わってから、誰の目にも明らかな結果を報告しにくるオジサンとしてのヘーゲル。いわく、近代国家の完成によって「歴史は終わった」。最初のヘーゲルへの抵抗としてのマルクス。『「歴史が終わった」ならもう革命は起こらない。なら、もうこの莫大な経済的格差も、搾取もなくならないということになる。そこで終わってしまっては困る。まだ歴史は終わっていない。まだ未来はある。まだ共産主義はあり得る』。ただし、マルクスは一例にすぎない。ヘーゲル以後哲学者たちはあの手この手でこの論理に抵抗してきた。ベルクソンの時間論も同じ。未来は定義上、まだ存在しないのだから、未来のことを予測できるひとなどいない。

8. 哲学的に死をとらえ直す。哲学の伝統では「存在=善」、ならば「無=悪」。では端的にわたしたちの生にとっての悪とは、死である。

9. 西洋における悪の捉え方。

⑴弁神論(中世神学およびライプニッツ):悪は全体の善のために必要。あるいは「自然に(神の摂理によって)起きたことだからしかたない」。この考え方から変革は起こらない。

 追記:この発想をシステム論的に置き直すと「システム・ニヒリズム」になる。

⑵弁人論(ルソーの思考をジャンケレヴィッチがこう呼んだ):悪は人間のせい。ならば変革は可能。

10. 人為的な巨悪を前にしたとき、ひとはそれを「自然」の摂理のようにみなしてしまう。「ホロコースト(生贄)」は、「ショアー(自然の災厄)」と呼ばれるようになる。原爆を落とされた広島の人々は当時「ツナミがきた」と語った。人間のせいなのに、そこにかかわるひとりひとりの力があまりに小さい(イプシロン)である場合、それを正しく認知できなくなる。デュピュイはこれを「システム的悪」と呼ぶ。

11. システム的悪はなぜ見えなくなるのか。ハンナ・アレントアイヒマンアウシュヴィッツの責任者)について語ったこと。彼は極悪な人間ではない。彼はただ無思考(thoughtlessness)だった。システムの一部として、ただ何も考えなかった。そのとき、何を考えなかったか?

12. 「無視できるほど小さな数字」、イプシロン。ある報道に対するデュピュイの怒り。「飛行機事故が起こったのに、死者はたったの三名でした」。「たったの三名」? 無視できるほど小さな数字となった人間のいのち。しかし、その三人は、その三人の愛する人々にとって、(文字通りに)かけがえのないひとりではなかったか。そのとき捨象されたものの甚大さを想像すること。

 追記:「わかりやすくするため」、「便宜上」、植民地支配や帝国主義支配による犠牲者たちは捨象される。そこにひとりひとりの生があったことを、すべてなかったことにして、想像の中からはじかれる。思い出されるアイヒマンの言葉。「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」(ただし、この発言が誰のものかは諸説あるらしい。スターリンという説もある?)。

13. アイヒマンは、何を考えなかったか? イプシロンである。彼はまずひとのいのちの重みを想像しなかった。それを書面上の数字にした。と、同時にかれは、みずからの命=力をも、イプシロンととらえた。「巨大なシステムのまえに、わたしは無力だった。わたしは歯車としてただ命令にしたがっただけだ。ゆえに、しかたのないことだ。わたしに責任はない」。

14. 私たちの力はどうだろうか。主権者としてもっている投票権。しかし、それは100000000分の1の力である。イプシロンである。「どうせ投票に行ってもなにも変わらない」。その結果としての「マスク二枚」。アレントのパートナーであったギュンター・アンダースの著作のタイトル『われらみな、アイヒマンの息子』。

15. コロナウイルスの蔓延は自然現象「でも」ある。しかし、対策は万全だったろうか。どこまでが人災で、どこまでが自然災害だろうか。明らかな人災である部分を、「自然のせいだからしかたない」と捉えてはいないか? オリンピックの後、病床が足りなくなったことの責任を誰かが取ったか? 福島第一原発事故の責任を誰かが取ったか? そこで失われたものの責任を。

16. 破局はシステム的悪として起こる。システム的悪に加担したひとつひとつの力も、そこで失われる命も、イプシロンとして日々捨象される。最初は小雨のようにパラパラとほつれてゆく。しかし、すぐに雨足は早まり、気づけば土砂降りの中にいる。「気づけば戦争のなかにいた」(ベルクソン)。

17. 破局を回避するには、小雨の兆候を見逃さないことが大切。つまり、イプシロンを無視しないこと。イプシロンを愛すること。愛するひとのいのちも、わたしの、無力に見えるけれど決してゼロにはならない、この力も。

18. 認知のパラドクス。「知っている」けれど「信じられない」。いつか破局はくる。知っている。でも信じられない。だから行動しない。ニーチェの「神は死んだ」は、神の状態ではなく、もはや信じる力を失った人間の状態についての考察である。信じることができない時代の困難。それでもなお、破局の極小の可能性を信じること。そしてなによりもわたしたち自身のひとり分のちからを信じること。

19. 最後に、アメリカの詩人、ホイットマンからの引用。

問い。私よ、辛く繰り返されるこんな問いがある。こんな悲しく骨折れる人生の真っ只中にいて、生きることにはどんな良いことなどがあるのだろう?

答え。

君がここにいるということ––––生が、存在していること。「君が君である」ということ。偉大な劇は続き、君もそこに一節の詩をよせることができるということ。