テクスト少考

 現代思想において、「文体」概念が「テクスト」概念に置き換わったことについて、中井久夫は、それが原因で、現代はついに第一級の文学作品を生み出さなかったという(うる覚え)。これは深刻な指摘ととらねばならない。「文体」に含まれるのは、レトリックやロジックやコノテーションだけではない、そこにはリズムがあり、発話されるさいの口腔感覚があり、おそらく、書物の匂いがある。テクスト概念から出発していかに豊穣な文字の含意の多層性を強調しようとも、その深層における構造からの逸脱や、詩的起源について指摘しようとも、「文体」概念から抜け落ちたものは計り知れない。そこには端的に、肉体が欠如しているから。(この意味で、ルジャンドルのテクスト概念は、これを拡張することで、文体概念へと戻ろうとしたのではないか)

 ところで、文体、スタイル、と。「鉄筆」を意味するラテン語stilusに由来するというが、テクストから抜け落ちたのは、この鉄筆を刻むときの身体感覚だろうか。古井由吉のいうdichtenに近いのか。

 そういえば、古井由吉中井久夫も、ある種のジャーナリズム的文体への嫌悪がある。二人がジャーナリズムについて述べるところはそれぞれ逆説的なのが気にかかっている。ジャーナリズムの文体は禁欲的で、事実をそのまま書くというニュアンスで受け取られているだろうが、中井久夫は、その文体をある種の禁欲(どういう意味だろう)を破った結果としての無垢性の喪失ととらえ、古井由吉はこれを中立的であると自認しているぶんよりいっそう虚に近い、という。

 文体の欠如。これが政治的荒廃をもたらすと古井由吉は言っていた。いまを生きるわれわれはこれからその意味を痛いほどに体験させられることになるだろう。