歴史-哲学と芸術の課題

 哲学がもはや形而上学的・客観的真理を明らかにできないことが明らかになった以上、哲学は歴史哲学でなければならない。しかし、ヘーゲル的な意味ではなく、ニーチェ的な意味でそうなのだ。

 哲学は歴史に、とりわけ現代に向き合いつつ、その時代が求めるものを、時代的無意識を明らかにしなければならない。この地点で哲学は芸術と課題を共にする。

 

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無意識の無規定な欲望を目的へと消化すること。芸術の課題。

 

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 「哲学がもはや形而上学的・客観的真理を明らかにできないことが明らかになった以上、哲学は歴史哲学でなければならない。しかし、ヘーゲル的な意味ではなく、ニーチェ的な意味でそうなのだ。

 哲学は歴史に、とりわけ現代に向き合いつつ、その時代が求めるものを、時代的無意識を明らかにしなければならない。この地点で哲学は芸術と課題を共にする」

と、以前ノートに書いたのですが、経営も同じですね。認識ではなく、無意識のレベルでなければ、真に時代精神は捉えられない。そして、無意識のレベルで時代精神をとらえたものは、必然的に宗教になるのだと思います。アップルしかり。

 

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「やっぱりニーチェ主義になるのだけど、どこまでいっても、人間は宗教から逃れられないとしたら、新しい宗教を生み出しつつづけることしか、人間が生き延びる道はないように思う」

 

力への意志』の意味。

 

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(注)ここで、「無意識」とは、神秘的な実体ではなく、端的に「肉体」ないしは「生理」くらいの意味です。ただし、ニーチェ先生が明らかにしたように、まさにこの「生理(例えば、しいたけが嫌い)」は、それ自体なかば社会的に構築されたものです。ルジャンドルならこの意味での「肉体」や「生理」を「ダンス」と呼ぶと思います。(このダンスの振り付けが「ドグマ」)

 

そしてこの「生理」を構築する社会は無限に複雑であるために、単なる科学的認識では追いつかず、ある種の芸術家的直観が必要になるのだと思います。この意味では、芸術家のほうが有能であることを社会が認める必要があるように思うんですが、なかなかそのような理解にはならないですよね。

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