H.P. 7 あるものはあるのであって、ないのではない
これをデカいサウンドシステムで聴きたい........。
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すべては変化する、とヘラクレイトスは言った。
すべては変化しない、とパルメニデスは言った。
パルメニデスにとって、変化は「ある」が「あらぬ」になることだ。だが「ある」は「あらぬ」にはならない。なぜなら、わたしたちは「ない」ものを考えることはできないからだ。どうして「ない」を考えられるだろう。「ない」のなら考えるべきものが「ない」はずなのである。だから、「ある」はあり続け、「ない」ものはない。ゆえに、すべては変化しない。––––There is the One.
しかもその「ある」は、永遠に不滅であり、分割不可能であり、変化せず、完結している。
あれ、これってなにかどこかで.......。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3-14)
永遠に不滅であり、分割不可能であり、変化せず、完結している。そう、これは一神教の「神」のもっとも基本的な定義である。残念ながらパルメニデスと西洋一神教との関係について知らないので、踏み込んだことは言えないが、パルメニデスが活躍したのは紀元前5〜4世紀、旧約聖書がまとまったかたちで成立するのと同時期だ。
いずれにせよこの頃に、広い意味での西洋の形而上学的な考え方が出現したと考えるのが妥当だろう。形而上学的とはすなわち、われわれが生きている物理世界を超えたところで考えうる純粋に論理的な思考である––––もっともパルメニデスは「ある」である「一」を「実体」と考えたし、一神教の「神」もまたそうであるが。
この考え方はとうぜん、プラトン以降の哲学の歴史に深い灰色の影を落とすことになる。何か超越したところに絶対的な真理を設定することは、その真理以外のものを否定しすることになる。これはニヒリズム(虚無主義)のもっとも基本的な形なのだ。これはときに生きることの否定となり、ときに人を殺すだろう。われわれはその好例としての十字軍も、ナポレオン戦争も、マルクス主義の帰結をも知ってしまっている––––そしてこの考えを完全に打破するにはニーチェを待たなければならなかった。
あれ、パルメニデスに対して少々辛辣かな。
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秋雨の節から年始にかけて、やはりひとり生の孤独を感じる。きっと遠い記憶によって塗り固められただけの虚妄だろう。だれが不幸か、だれが不安か。どれほど悲劇的であろうと、否、悲劇的であればあるほど、わたしのこの生、以て瞑すべし。これがニーチェの教えではないか。だが、もっぱらその悲劇的感情こそ虚妄だったりするから、安心して苦しめばいい。大したことではない。