哲学とは何か

 哲学は主観的意識の〈生〉から思惟を開始する学である。これはいくら自明とはいえ強調しておかねばならない。私の心からしかはじめることができない学としての哲学。哲学が根本的に科学と相反するのは、哲学が客観を、主観を介することによってしか認めないからである。こう言ってみようか。哲学は〈生〉の側にある、と。哲学は「生きている」ことからはじまる。そこに隠された主語はつねに「私」であり、「(私が)生きている」というありふれた事実のうちにしか出発点を持たないのである。

 このことはしかし、デカルト的自我への準拠を必ずしも意味しない。主語が「私」でなければならないとしても、重要なのはその私の動詞的な〈生〉なのだ。その意味で、哲学の探求は、時間とともに開始される。〈生〉は普遍ではない。永遠ではない。一人ひとりの人間は死に至るから。とはいえ、あまりに当たり前だが、哲学の探求が時間を生じさせるわけではない。ひとりの人間が生まれる前に、かならず人間いた。すなわち、哲学の探求––––ひとりの人間によって〈生〉の時間のなかで開始される希求––––は、そのはじまりの都度、〈歴史〉という超個人的な時間の舞台の上に乗り込むというかたちではじまるのである。科学が捨象するのは、なによりもこの〈歴史〉である。

 もしも哲学がこの〈生〉の岸辺を遠く離れて、科学的空間––––という一つのフィクション––––を自明のものとするならば、まさにその空間の制限によって、あらゆる問いを黒く塗りつぶすことになるだろう。そのとき哲学は、科学的世界観によって色彩を奪われた非時間的な「いま、ここ」のみが重要視されるべきであるという現代的信奉ないしは盲目のために役立つ。だが言おう、クソの役に立つくらいなら、役立たずであることを善しとするのが哲学の政治的立場でなければならない、と。

 哲学は〈生〉の堆積物としての〈歴史〉への感謝でなければならない。

 

(後記)
フッサールを政治化しつつ、ヘーゲルを相対化しつつ、〈生〉と〈歴史〉を中心とするような哲学を構想したい。