天才についての駄文

 天才は自然それ自体を引き写しているようにみえる。

 かれらはまるでかれら自身が自然であるかのように、自らが原因であり、自らに自足している。自然と同じく、自らを自覚しないままに。

 最初の天才の形象はルネサンス期に、レオナルド・ダ・ヴィンチに求められる。アリストテレス以降、芸術の目的は自然の模倣(ミメーシス)であったが、ひとはダヴィンチの時代に人間のなかに積極的に「自然」を見出すようになったのではないだろうか。だから、このとき生まれたのだ、オリジナリティという神話が、神に代わって人間の偉大さが寿がれはじめる時代に。

 しかし、現代のニヒリズム的状況––––「あらゆることに意味はない、なにをしても無駄である、それはかつてあったし、いまも、わたしがやらなくても誰かがやるのだから、別にわたしがやらなくてもいい、わたしは誰とでも取り換えのできる部品にすぎない」という事実の直観––––にあって、自然のように自覚なく、この閉塞感に自足するような人間が天才と言えるだろうか。はっきり言って、わたしはこの時代に天才はありえないと思う。

 あるのはただ、自らの欲望に忠実に従う普通の人間である。それは天才を格下げすることになるだろうか。否、自らの本能的欲望、すなわち自然にもっとも従うことのできる人間を、ひとは勝手に天才と呼ぶだろう。しかし、そこから一歩進んで、このニヒリズムを従えて、自らを、そして自らの生きる時代を深く自覚しながら、それでも欲望する勇気を失わない「忠実な人間」こそ、変革の兆しを齎す、筈だ。

 

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 ニヒリズム的状況について、つまり、「あらゆることに意味はない、なにをしても無駄である、それはかつてあったし、いまも、わたしがやらなくても誰かがやるのだから、別にわたしがやらなくてもいい、わたしは誰とでも取り換えのできる部品にすぎない」という事実の直観について、それが逆説的に救いにもなりえる、といったような本をいつか書きたい。どんなかたちであれ。わたしの偉大さがもっとも卑小なものへと格下げされることによって、現れる救い。わたしでなくてもいい、という自由。