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ビート・サイエンス・フィクショニストは郊外の悪夢を見るか?



Does the Beat Science Fictionist Dream of Suburban Nightmare?

 

泉智 (ele-king)

 

 

 現実に起これば恐怖でしかない出来事も、夢の中でならその余韻は甘美だったりする。

 

 

 たとえば追われる夢。追われているときは追ってくる誰かから逃げている、そう思っているけれど、本当は捕まるために逃げている。最後にどん詰まりに行き着き、逃げ場などないと確認するために逃げている。デッドエンドのラストを安堵して迎えるために。

 それが死の間際の走馬灯ならなおさらだ。死の痛みを消すために過剰分泌された脳内麻薬の見せる幻覚。そうでなくても夢の中では不思議なことが起きる。それでも人間は見たことのないものを夢見ることはできない。

 古代の軟体動物の遺伝子を操作して造られたヒト型のレプリカント。マシンの腕を持ち、いくつものコンピュータ・チップを埋め込まれた体内にはガソリンの匂いの血液が流れ、分泌する汗は強烈なアシッドと同じ成分で、きまぐれに美しい喉を震わせてアレサ・フランクリンそっくりの声で歌う。

 もしもそんな異様な存在が夢に出て来たとしても、それは軟体動物、レプリカント、マシンの義手、ガソリンの匂い、静脈の浮いた女の喉、アレサ・フランクリンの歌声、いつかどこかで記憶されたそれぞれのイメージのコラージュだ。

 

 

 郊外で生まれ育ったのなら人生の最後に見るのもきっと郊外の夢だ。よく目にするもののイメージは脳の奥底に焼きつく。それに突然そこに放り込まれたって郊外ってのは一目でわかる。郊外は匿名でどこでも同じ顔をしているから、アイデンティファイできないことでアイデンティファイされる。

 フランス語でバンリュー(Banlieue)。英語でサバービア(Suburbia)。パリの外縁にひろがるバンリューは都市生活者が排出する残りカスの吹きだまりで、華々しいパリの都市文化が無視してきた場所ではない場所、非-場所(Non-place)だった。逆にロンドンの周縁部は都市から逃げ出した富裕層のユートピアで、アングロ・サクソン産のその甘ったるい夢は新大陸アメリカにまで持ち込まれた。ユートピア(Utopia)の語源は「どこにもない場所」で、それも非-場所であることに変わりない。

 アメリカで花開いたサバービアの夢は第二次大戦後の高度成長とともに太平洋を超えて日本にも飛び火した。森を切り拓き、山を削り、田畑を埋めて都市の外縁に区画整理された、庭付き一戸建て/集合住宅の群。

 

 

 遊ぶか、セックスするか、自殺するか。そこが天国でも地獄でも、場所なき場所の空気は薄い。歴史の空白に生まれ育った子どもたちは、酸欠からくる嘔吐感をもよおしながら、たっぷりした余白にD.I.Y.の物語を書きこんでいく。マチュー・カソヴィッツ『憎しみ(La Haine)』のパリ。ハーモニー・コリンガンモ(Gummo)』の南部ナッシュヴィル。マッテオ・ガローネ『ゴモラ(Gomorra)』のナポリペドロ・コスタヴァンダの部屋No Quarto da Vanda)』のリスボン。それぞれの郊外にはそれぞれの物語があり、それらは国境を越えてゆるやかな共犯関係にある。

 

 

 長いあいだミドルクラスの倦怠と憂鬱の象徴だったアジアの島国の郊外でも、そこに現在進行形の、あるいは未来の廃墟の物語を幻視する共犯者はいる。そこそこ豊かで満たされてはいるけれどなぜか空虚、きっとそんな定型の感想文以外にも、そこで語られるべき物語はあるのだ。

 

 

 この国全体を包む生クリームのような微温的な抑圧によって、物語はまず夢として表出するだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を夢だと自覚するきっかけは物理法則の失調。(涙の跡が残る目でまばたきを繰り返すうちに、あざやかすぎるのだ、と気づく。本来なら血というのは吹き出る一瞬だけきれいなヴァーミリオンで、すぐに空気に触れて酸化し黒く汚い血だまりをつくるはずだ。だからアスファルトに大量に流れ出た血がこんなあざやかなままなのはおかしい。最初のノイズの察知。これは夢なのだ。)

 

 

 致命傷を与えた凶器は杵(きね)。(細長い棒の先にアンバランスなほど巨大な材木の塊。米粒を叩き潰して粘度を増し、餅に成型するための道具。銃や刀を恐ろしくも美しいと感じるのは、それが生き物の細胞を破壊して息の根を止める、はじめからその目的のためにつくられているからだ。だけどスパナやペンチ、金槌や包丁というのは違う。普段はそれぞれの目的のために正しく使われている道具を誰かに向けられて、とっさにそれを凶器として認識したとき、日常風景に亀裂が走ったような不穏な気分に襲われる。)

 

 

 追ってくるのは狐の仮面の男。(返り血を浴びた、いかにもな白装束。けれど正式な和装ではなく、真っ白なダメージ・デニムにスニーカー。すれ違いざまに突然踊りだす通行人たちは、昔ながらの祭り囃子や伝統的な葬送の列を思わせるけれど、郊外の人間の記憶には実はそんなイメージなんて蓄積されてない。だから踊り子たちの動きはコンテンポラリー・ダンスじみたものになる。もちろんやくざ然とした強面のボスに小突きまわされるのも恐怖ではある。けれど、やくざやギャングというのは拳銃や刀と同じ、そもそもが暴力の象徴だ。夢というには現実的すぎる。単なる危機感と違い、恐怖というのは基本的に、自分には理解のできないものから生じる。)


 恐怖をドライヴさせるのは救ってくれる人間がいないこと。(見慣れた背中というのはどんな状況でも見間違えるわけがない。だけどその女に追いすがっても、あんたのことなんてまるで知らない、という顔で突き放され、拒絶される。関係性というのは弛んだ/緊張した糸だ。一方がいくら引っ張っても、相手が手を放してしまえばそれを維持することはできない。

 とりつくしまもなかった女は、幼い頃の自分によく似た少年を抱きしめる。その懐かしく愛くるしいはずの光景をみて、ひどい疎外感をおぼえて立ち尽くす。目の前の風景の皮が一枚べろりと剥けるような感覚。その感覚は、悪夢的、と表現されたりもするだろう。

 クライマックスの手前、アスファルトのうえ花火する少女。時間の流れによって永遠に隔てられ二度と戻れない過去の記憶は、いつも不意に顔を覗かせて心を慰めてくれるけれど、けしてこちらからそれに救いを求めてはいけない。ノスタルジーに溺れるのは死の前兆現象だ。そんなことをする人間は過去の自分自身からも軽蔑される。)

 

 

 デッドエンドにいるのはボンネットで脚を大きく開いた女。(たとえ記憶はしていなくても人種や国籍、セクシャリティを問わない誰もが、血にまみれてこの世に産み落とされてすぐに最初に目にしたはずの女。排気ガスにけむる大股開きは、性交の姿勢というよりは、まるで分娩台のうえの姿勢だ。そういえば昔、オーガスムのときの表情は苦悶に似てる、とひどく月並みなことをなんともなしに呟いてしまったとき、あれは死の危険さえある出産のときの痛みの表現の何百万分の一かのレプリカだ、と隣にいた女がからかうように笑った。けれどそんなことを意識してしまうのはちょっと危険な感じがする。

 たしかに長い期間にわたって性交を繰り返した相手とのセックスは、おたがいの欲望そのものに親和的なムードがふくまれてくる。極限状態の疲労だとか、死を意識するくらいの絶望感に浸されているときには、その親和的なムードの混じった欲望の共有は中毒的だ。きっとそれは生にかんするあらゆる欲望の原型に近いのだと思う。大きなネコ科の獣を思わせる美しい女は最後にひどく優しく笑う。静謐な笑顔のまぼろしは、逃げるのをあきらめた男のマチズモを自慰的になぐさめる、夢の中で見る夢だ。惨劇の後にようやく許される、ミルクのように甘い夢。)

 

 

 なにもかもがいびつ。だがリアルだ。(あらゆる解説は創作物に対する侮辱だ。俗流夢分析や心理術のテクニックが人気なのは、未知のなにかをシステムに組みこみ遠くから理解したつもりになることで、つかのまの優越と安心を得られるからだ。異物と交わり、全身に浴び、まるごとのみこんで胚胎することなしには、なにかを生み出すことなどできない。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 イメージというのは一瞬の閃光か、あるいは遅効性の毒みたいなもので、それはどんな物語からも自由だし、だからこそ逆にあらゆる物語を生み出す種にもなる。

 その場合の物語とはなにも言語によるものに限られない。言葉をふくまない音楽でも映像でも、作品をつくるというのはイメージをつむいで物語を生み出すことだ。コードの組み合わせと展開、リズムのパターン、フレーズやメロディ。一定のシークエンス、連鎖と切断、スタートとラスト。

 

 

 ひとまず音楽にかんしていえば、マシンによるその創作は夢に似る。肉体による楽器の演奏に必ずフィジカルな制約が存在するのと違って、マシンの音楽は物理法則を無視して現実のパーツを組み立てることができるし、たいていの創作者は実際になんの躊躇もなくそうするわけだから、それは本質的に夢なのだ。

 マシンの音楽家は、目には見えない空気の振動のピースを独自の文法で精巧に立体設計することで、いまだ現実には存在するはずのない音の物語を創りだす。そこで必要とされるのは、科学者(Scientist)としての厳密さ、そして作家(Fictionist)としての想像力。

 

 

 ビート・サイエンスという言葉もあるけれど、俺はずっとRAMZAの音楽を言語を使わないサイエンス・フィクションだと思っていた。人間よりも人間らしい感情と、マシンだけがもつ無邪気な残酷さで奏でられる、レプリカントの音楽。スーパー・コンピュータの最深部にプログラムされた宗教的な慈愛。絶望的なシミュレーションの結果にマシンの頬を伝うオイルの涙。2045年に自己増殖による技術的特異点を迎える人工知能がバグを起こし、突然変異的なエラーとして生み出すノスタルジーとサイケデリア、その予言的な霊視。きっとこれから幾度もの原発事故と核ミサイルによる荒廃を経た何百年後かの未来、別の惑星に不時着した飛行体の破損データの片隅から奇跡的に救出され、降りしきる酸性雨の晴れ間の海岸線でまた孤独に太古からの夢の続きをつむぐだろう。

 

 

 マシンの指先でソウルの断片と現実のかけらをコラージュして構築された音のフィクションは、それ自体が無数のイメージの宝庫となり、また別の物語と言葉を誘発する。

 サイエンス・フィクションや夢がファンタジーや妄想と違うのは、それがどこかで必ず現実の深層部に接続されているところだ。

 人類最古のアナログ・コンピュータである脳のグリッチ・ノイズとしての夢は、古くには神の啓示とされ、近代になってからは人間の無意識の大海を探る重要な手がかりとされた。たとえ未来でマシンと人間の境界線があいまいに消失し、人を人たらしめる感情さえ電気信号の演算に還元されたとしても、恐怖や陶酔をもたらす不可思議な夢の想像力は、消去データの痕跡として亡霊のように現実を揺さぶり続ける。

 

 

 マシンの音楽が生んだこの悪夢は、まるでノンフィクションのようにリアルに、みずからの誕生した場所なき場所を暗示する。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は遠い追憶になり、たえまないグローバル化と大震災による急速な衰退にさらされた日本が、これから中国大陸を中心に隆盛するアジアの都市圏におけるひとつの郊外になっていく、という見通しはたぶん間違ってはいない。

 その衰退をゆるやかな死とするなら、死の恐怖が脳内麻薬の過剰分泌による幻覚を生み出すように、日本の没落もまた、その過程でさまざまな奇妙な夢を産み落とすはずだ。そこにアメリカ製のかつての夢の残骸の影を見ることもできるかもしれないけれど、戦後日本の産みの親であり、二〇世紀の文化的、軍事的な覇権国家だったアメリカはそれ自体、いわばヨーロッパの巨大な郊外としてその産声をあげた。

 

 

 すべての夢は歴史の瓦礫をもとに創りだされるモンタージュだ。それがどんなにいびつなものでも、郊外の人間は生まれつきのとても美しい傲慢さで、そのうつろな影法師の国こそが自分の故郷だと信じて疑わない。ビート・サイエンス・(ノン)フィクション。郊外の悪夢。ここでは死の匂いさえ甘い。