Sigh about Neurosexism or human Stupidity

 「まあまあまあ、しょうがないじゃないですか〇〇先生、女の子なんだから数学や理科は苦手ですよ」

 「女性の政治家って嫌いなんですよね、ほら、あの人たちって感情的にものを言うじゃないですか。やっぱり向き不向きがあるから男性の政治家のほうが多いんでしょ」

 「わたし女の教師って嫌いなんですよね、すぐにがなりたててちゃんと指導できないでしょ。以前ここにひとり女の教師が勤めていたんですけど、すぐに文句を言ってましたから」

 

 残念ながらこの世界にはクズ––––これでは形容として弱いけれど––––のような人間が存在する。しかもそのクズどもは全く自覚なしに、単なる無知のゆえにクズだったりするから始末が悪い。つまり単にバカなのだ。バカはそいつ自身がバカであるという罪に加えて、バカがゆえにバカな言動をするという罪、さらにはそのバカな言動によってバカさを世界に振りまいて他人に危害を加えるという罪を犯し、この三つの罪によってクズと形容するだけでは足りないほどに人類にたいする害悪をもたらしている。

 では、いかにこの愚劣な連中を更生させるないしは黙らせることができるのか。これに関して哲学はまだ明確な答えをもたない。ドゥルーズは、哲学の真の敵は愚劣であって狂気ではないと喝破していた。狂気には一定の法則があり、狂気の内在的秩序によって活動を行うがゆえにある意味で対話が可能であるのに対して、愚劣はなんの秩序もなくただ愚劣であり、そもそも対話が不可能な相手であるからだ。愚劣な人間に対しては哲学はお手上げだ(ただドゥルーズは「哲学は思考の愚劣さを明るみに出すこと以外の使用をもたない」とも言っている)。

 なぜこんな話をしたのか。冒頭に引用させていただいたように––––お目見汚し失礼––––むかし働いていた中学生向けの進学塾の同僚のおっさんが明らかにバカなことを垂れ流し続ける愚鈍なクズであったのを思いだしたからだ。わたしは授業中に生徒に聞いてみた。

 「あの先生が講師室でこんなこと言ってたけど、授業中もそういうこと言ってるの?」

 「そういえば、確かにそういうことはよく言ってます」

 「へえ、ゴミ屑みたいな先生だね、というか、先生やる資格がないね☺️」。

 わたしは怒った。相手は中学生、もし冒頭にあるような言説を先生の口から耳にしたらどうだろうか。ふつう信じるだろう。ああ、わたしは女の子だから数学はできないし、リーダーシップをとることはできないんだ、と。このクズ教師はこうしたバカな言説をふりまくことで、その生徒たちの将来の可能性を––––あるいはこう言ってよろしければ、人類の未来を––––終わらせている。

 「それって男女差別ですよね」

 「いやいや、そんなつもりはないんだよ、でもやっぱり科学的に脳の構造が違うじゃない。女性は感情的になるから」

 「いや、最新の脳科学では男女の脳の構造に優位な差はみられないというのは常識ですよ。非科学的で感情的なのはあなたですよね」

 「いや、まあまあ意見はひとそれぞれありますからね、落ち着いて、ほら、そろそろ授業ですから」(立ち去る)

 「......。(あ? てめえに教師やる資格ねえから。さっさと辞めて、少しはこの世界の役に立つように、実家に帰ってそのハゲあがった鳥の巣みてえな頭でニワトリの卵でも温めて一生を懺悔して過ごせクズが)」

 心の声を外に出せないところにわたしの弱さがある。

 とはいえ、正直なところ自信がなかった。というのも、男女の脳に違いはないというのはどこかの科学雑誌を読みかじっただけで、「ほら、これをみろ」というものを即座に提示できなかったからだ。先ほどふと思い出してもう一度確かなソースを探した。すると、まあ世界で一番権威ある科学雑誌と言ってあまり文句がないであろうNatureに記事があった。

www.nature.com

 わざわざ内容を精査することはしないし、その必要もないが––––この理由についてはいつかどこかで書くことになろう––––この記事によれば「最終的な」結論はすでに出た。男脳と女脳のように俗世でいわれるものは神話、つまりデタラメである、と。しかもそのデタラメに名前がついている。「神経性差別(Neurosexism)」。

 この差別は新聞やテレビ、あるいは教師がこともありげに非科学的な「真理」を吹聴したことで蔓延してしまった。この記事ではそうして「ジェンダー化された世界がジェンダー化された脳を生み出す」ことはあるだろうと指摘されている。この因果関係はたしかにあり得ることで、クズ教師に「数学は苦手」と信じ込まされた女の子が、実際に数学が苦手になってしまうということだ。クズ教師はテメーのデタラメによって、その現実を創り出しているわけだ––––社会学ではこれを「予言の自己成就」(マートン)という。バカはたいてい擬似相関関係を因果関係と取り違えてしまうが、ひどい場合には逆の因果を辿るのだ。

 ともかく、今度からは即座にこの記事を提示すればOKだ。

  ところで、強く主張する自信がなかったのは、ソースが不確かだったからだけではない。わたし自身、クズになりかけていたことがある。「男女の脳の構造は違うかもしれない、だとしてもそれを理由に差別するのはよくない」という意見を持っていたことがあるのだ。先ほどの記事にあるように男女の脳が違うというのは完全なデマであり、しかもそれが「科学」の名のもとで拡散される力をもつデマ––––これを「科学主義」といい「科学」とは区別されなければならない––––であるからタチが悪い。しかし、わたしはこのデマを大して調べもせず、なかば鵜呑みにしていたのだ。そのあと自分の愚かさに気づくことができたからよかったものの、あやうくStay Kuzuするところだった。クズになるのは容易い。ドゥルーズは基本的にどうも好きになれないのだが、ときどきいいことっぽいことを言う。

 哲学は時代にたいする怒りから切り離せないということはたしかだ。しかし、もう一方で哲学が静謐の感をもたらすということも、やはり見落としてはならない点である。哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。たしかに哲学でも大がかりな内戦が勃発することはあるだろう(たとえば観念論と実在論の対立)。しかしそれは戦いといっても冗談の域を出ない戦いだ。みずからは力ではないのだから、哲学が他の諸力と一戦をまじえることはありえないのである。しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。相手に向かって言うべきこともないし、伝えるべきことももちあわせていないからだ。哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで侵入してくる。だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることにもなるわけだ。それもまた哲学の効用なのである。

ドゥルーズ『記号と事件』(宮林寛訳)

(ちなみにここで「折衝」と訳されている"pourparler"はこの本の原題ともなっており、プチ・ロベールで引いたもとの意味を訳すと「ある一つの合意に至るために複数の党派のあいだで協議をおこなうこと」となる。いわゆる力と力の「戦い」は相手を打ち負かすことが目標であるのに対して、力をもたぬ哲学は交渉して合意形成することが目指されるということか。こういう言葉遊び的な誤魔化しをするところがドゥルーズに嫌気が差す原因である。きっとフーコーは怒っただろう。知はそれじたい力である、つまり、言説はそれじたい力であって、哲学だけがその力を免れていると考えるのは傲りだ。とはいえ.....)

 ここで言われているように、おそらく人間の愚鈍に対抗する方法は、まず自分自身にたいしてゲリラ戦をくりひろげることからはじまるのだろう。自分のおろかしさを直視することがどんなに辛かろうと、それ以外に人類が前進する道はないだろう。とにかく、まず勉強すること。自己批判すること。自己批判を通して可能なかぎり他者を諫めること。これを続けるしかない。