Visio Dei

主よ、あなたが私を慈愛のまなざしで見つめてくださっているのですから、あなたの観ることは、私によってあなたが観られること以外の何でありましょうか。あなたは私を観ながら、隠れたる神であるあなたを私によって観させるために〔あなたを私に〕お贈りくださっているのです。あなたが、みずからを観させるようにと贈ってくださらないかぎり、誰も〔あなたを〕観ることはできません。あなたを観ることは、あなたを観ている者をあなたが観てくださることにほかならないのです。

ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』

 Visio Dei は二重に解することができる。ひとつは「私が神を観ること」、もうひとつは「神が私を観ること」。「反対物の一致」。だが、問題はそこではない。「あなたの観ることは、私によってあなたが観られること」、と。神が観るということは、どこか一点(例えば上空から)私を観ることではない。というのも、神はあらゆるところにいるのだから。すなわち私が神を観るとき、私を通して神が観ている。私のうえに重なるようにして神が私と共に観る。私が鏡を覗き込むように。

 では、神はわたしを通して何を観ているのだろう。

 クザーヌスは神と人間の〈原像––似像〉という古典的なシェーマに、ある補足を加え、知恵の三角構造を構想した。すなわち、神による大文字の「Sapientia」に対して、人間の知性としての「sapientia」と、同じく創造された世界における秩序としての「sapientia」があるということだ。知恵による Sapientia の三位一体である。とすれば、Visio Deiとは、人間が知恵を働かせ、神の被造物である〈世界という書物〉の総体を読み解くことでもあるだろう。

  神は(中世神学の格言によれば)「鏡に映らない」。そこに映るのは〈世界という書物〉、つまり「自然」である。ならば、「あなたの観ることは、私によってあなたが観られること」とは「神は人間を鏡とすること」ともいえないだろうか。透明な神の鏡としての人間。その鏡を神のために透明に磨いておくことを、クザーヌスは「学識ある無知」と呼んだかもしれない。

(後記)
ここで出てきた「透明な鏡としての人間」という発想はヴェイユ的と言えるだろうか。自らの内実を失って、他者のために開け放たれ、透明化された自己。国会前で声をあげるときに意識していたことってこういうことだったなと思い出した。