『眼と精神』。少し不躾に。

  メルロ=ポンティ『眼と精神』を読んでよかったと思えるのは、いたって常識的なことを確信することができたからである。画家は描く天才であるずっと以前に、見る天才であるということ。見るためには、技法が––––「見る手つき」とでも言ってみようか––––とうぜん必要になるのであり、過去の絵画は見たことの痕跡であり、その痕跡の読解こそが、画家を絵画の〈歴史〉のキャンパスへと導く。かくして、絵画はそれじたい、〈歴史〉を内包した––––そう言ってよいのなら「制度化」された––––積層的なものとなる。これはもちろん音楽についても、小説についても同じことが言える。製作者の製作過程まで引きずりこまれるというのは、ある精神の消失点へと導かれることであり、端的に言って狂気である。だって、その人になってしまうのだから。そのような地点で見、聴き、読み、そして描き出すこと。メルロ=ポンティの思索が露わにするのはその営みの変わらなさと、終わらなさである。