宗教について
宗教において、美と政治は未分化である
不在と喜び
なぜ、不在は喜びでもあるのか。
不在においてわたしたちは、現前した〈あなた〉以上に〈あなた〉を渇望する。
この渇き、この飢え、この苦しみ。
苦しみがわたしたちを〈あなた〉への思考を高める。なぜ、なぜ、なぜ、どうして、〈あなた〉はここにいないのであって、いるのではないのか。その渇きの強さは、祈りになり、〈あなた〉への愛になる。愛において、わたしはひとりではない。
〈あなた〉は過去にもあり、未来にもある。ただここに現前(present)していないだけで。でも、わたしが欲する(want)のは未来だけ。
祖母の語り
金井家
長男:利廣:軍曹、満州へ。兄弟おもいだった。中国でチフスにかかりすぐに死んだ。
次男:喜久
長女:貞子(?):幼く亡くなったが頭がよかった
3才で駄菓子屋のおつり「足んないよ」
次女:満子:みっちゃんばあば
三女:静子:しいしいばあば
四女:露子:つうこばあば
三男:稲也:イネ兄さん
四男:四郎
五女:昭子:ばあば S.10
六女:寿(壽?)美枝:すーちゃん
五男:利久也:とくあんちゃん
(一ダースいる。だからあと一人いるはず。長男の上に兄がもう一人?)
母:金井夛か:「よしひろ」という料理屋の娘、弟が氷屋
川が流れていた、針を落としてもわかるほど澄んだ水、冷たい水
冬には蚕を育てていた
父:萬太郎
S.16年に戦争が始まる(6才のとき)、それより前に山梨へ
疎開:小学校3~4のとき(9才)
「金滝」という旅館
山上にぽつんと
筒井温泉、福島
父方祖父:利作(百姓の子)
祖母:忘れた
闇米を買って機関区を抱き込んでしまった
尾久で生まれた
向こう傷、わたしの真理
顔の向こう傷、スカーフェイス。わたしには見えない。それは、木漏れ日のなかの最初の記憶(それも写真によって事後的につくられたものかもしれない)、わたしの名を呼ぶ母親の声、不分別ないたずらに対する父の怒りの顔、わたしにとっては御仏による監視(神は宇宙規模の窃視者だ)、換喩によってつけられた渾名、つい先ほどまで友人だった者たちの耳語、社会から刻印されたさまざまの法。
こうした傷を再発見すること。自己と出会いなおすこと。自己の記憶と触発しあうこと。それは最も困難で、道なき道への挑戦という体裁をとることが多い。ニーチェいわく。自己を発見することが最も難しい。自己に耐えられないから、ひとは隣人を愛し、退屈に耐えられない。それは、自己の傷と触発しあうことで起こる痛みに耐えられないから。しかし、そこをくぐりぬけて、自己の傷とむきあい、それを再解釈できたなら、〈わたし〉という場における社会的法を変革したことになる。端的に、わたしの真理を発見したことになる。その真理は絶対的でも、普遍的でもない、わたしの真理、わたしの趣味、わたしの法、わたしによるわたしの支配。
わたしの真理は、他者になにも押し付けない。わたしの真理は、他者を導く。他者に教育し、他者に友愛をもとめる。わたしの真理は他者を救済しない、わたしだけを救済する。だが、もしもわたしの真理を、他者がおのれの真理とするならば、そのときその他者は外部からではなく、おのれの内部から救済される。書物はそこで比喩ではなく血肉となっている(ルジャンドル)。そして血液が浮きたつように救済される。
わたしの真理は、社会から孤絶することを教える。わたしはわたしひとりでふたりだから、孤独を感じることもないのだね。そう、多数でいることをわたしは好まないのではない、もはや多数でいることができない。ただし、そこに星の友情がないわけではない。汚れた川はいつか混じり合う。いま、きみとともにいない。そういうかたちで、いまきみとともにいる。明かしえぬ共同体(ブランショ)。
わたしの真理は、孤独なまま、誘い合う。路上でまた誰かを待っている。まだなにもかもやってみたわけじゃないから。「やあ、きみ、またそこにいるな」(ベケット)。友愛という唯一の共存方法。
わたしの真理は、「真理のゲーム」(フーコー)に参加する。世界が賭博場になる。そこには笑いと、ダンスがある。命がけだが、真剣な顔をしたひとは誰もいない。なぜならわたしの真理という賭金を、わたしから奪うことは誰にもできないから。わたしが自由に思惟することを奪うことは、どんな権力者にもできない(エピクテトス)。
テクスト少考
現代思想において、「文体」概念が「テクスト」概念に置き換わったことについて、中井久夫は、それが原因で、現代はついに第一級の文学作品を生み出さなかったという(うる覚え)。これは深刻な指摘ととらねばならない。「文体」に含まれるのは、レトリックやロジックやコノテーションだけではない、そこにはリズムがあり、発話されるさいの口腔感覚があり、おそらく、書物の匂いがある。テクスト概念から出発していかに豊穣な文字の含意の多層性を強調しようとも、その深層における構造からの逸脱や、詩的起源について指摘しようとも、「文体」概念から抜け落ちたものは計り知れない。そこには端的に、肉体が欠如しているから。(この意味で、ルジャンドルのテクスト概念は、これを拡張することで、文体概念へと戻ろうとしたのではないか)
ところで、文体、スタイル、と。「鉄筆」を意味するラテン語stilusに由来するというが、テクストから抜け落ちたのは、この鉄筆を刻むときの身体感覚だろうか。古井由吉のいうdichtenに近いのか。
そういえば、古井由吉も中井久夫も、ある種のジャーナリズム的文体への嫌悪がある。二人がジャーナリズムについて述べるところはそれぞれ逆説的なのが気にかかっている。ジャーナリズムの文体は禁欲的で、事実をそのまま書くというニュアンスで受け取られているだろうが、中井久夫は、その文体をある種の禁欲(どういう意味だろう)を破った結果としての無垢性の喪失ととらえ、古井由吉はこれを中立的であると自認しているぶんよりいっそう虚に近い、という。
文体の欠如。これが政治的荒廃をもたらすと古井由吉は言っていた。いまを生きるわれわれはこれからその意味を痛いほどに体験させられることになるだろう。