向こう傷、わたしの真理

 顔の向こう傷、スカーフェイス。わたしには見えない。それは、木漏れ日のなかの最初の記憶(それも写真によって事後的につくられたものかもしれない)、わたしの名を呼ぶ母親の声、不分別ないたずらに対する父の怒りの顔、わたしにとっては御仏による監視(神は宇宙規模の窃視者だ)、換喩によってつけられた渾名、つい先ほどまで友人だった者たちの耳語、社会から刻印されたさまざまの法。

 

 こうした傷を再発見すること。自己と出会いなおすこと。自己の記憶と触発しあうこと。それは最も困難で、道なき道への挑戦という体裁をとることが多い。ニーチェいわく。自己を発見することが最も難しい。自己に耐えられないから、ひとは隣人を愛し、退屈に耐えられない。それは、自己の傷と触発しあうことで起こる痛みに耐えられないから。しかし、そこをくぐりぬけて、自己の傷とむきあい、それを再解釈できたなら、〈わたし〉という場における社会的法を変革したことになる。端的に、わたしの真理を発見したことになる。その真理は絶対的でも、普遍的でもない、わたしの真理、わたしの趣味、わたしの法、わたしによるわたしの支配。

 

 わたしの真理は、他者になにも押し付けない。わたしの真理は、他者を導く。他者に教育し、他者に友愛をもとめる。わたしの真理は他者を救済しない、わたしだけを救済する。だが、もしもわたしの真理を、他者がおのれの真理とするならば、そのときその他者は外部からではなく、おのれの内部から救済される。書物はそこで比喩ではなく血肉となっている(ルジャンドル)。そして血液が浮きたつように救済される。

 

 わたしの真理は、社会から孤絶することを教える。わたしはわたしひとりでふたりだから、孤独を感じることもないのだね。そう、多数でいることをわたしは好まないのではない、もはや多数でいることができない。ただし、そこに星の友情がないわけではない。汚れた川はいつか混じり合う。いま、きみとともにいない。そういうかたちで、いまきみとともにいる。明かしえぬ共同体(ブランショ)。

 

 わたしの真理は、孤独なまま、誘い合う。路上でまた誰かを待っている。まだなにもかもやってみたわけじゃないから。「やあ、きみ、またそこにいるな」(ベケット)。友愛という唯一の共存方法。

 

 わたしの真理は、「真理のゲーム」(フーコー)に参加する。世界が賭博場になる。そこには笑いと、ダンスがある。命がけだが、真剣な顔をしたひとは誰もいない。なぜならわたしの真理という賭金を、わたしから奪うことは誰にもできないから。わたしが自由に思惟することを奪うことは、どんな権力者にもできない(エピクテトス)。