善悪について

・善意や悪意が先にあるのではなく、善的ふるまいと、悪のふるまいがある。善的なふるまいをすると、善意が湧き、悪のふるまいをすると悪意が湧く。(フィードバックが変わるティッピングポイントをつきとめたい)

 

・ふるまいを徹底するのは難しい

 

・悪人になるのは難しい

 

・善意は無から生じない、悪意も。

 

・善人のように振る舞えばいい

 

マキャベリは、「人間は本来、善人になりきることも、悪人になりきることもできない」と言った。悪人にみえるひとの多くは、元から悪意があったわけではなく、悪的なふるまいを社会のなかで学び(たとえばダウンタウンから)、それをかっこいいと思ったのか、おもろしろがってやったのかわからんけど、やってみたら引っ込みがつかなくなって、ずっとダサくてつまらない態度をとってしまう負のループ(正のフィードバック)に入ってしまっているのではないか。悪意が悪を産むのではなく、悪のふるまいが悪意を呼び寄せる。ひろゆきや、ホリエモンや、成田祐輔や、悪的なふるまい、冷笑的なふるまいを教え、感染させる教師として(そして当人たちも引っ込みのつかなくなったダサいつまらんやつとして)、最悪の教育をしている。逆のことが善にもいえるなら、わたしたちはただ、それがフィクションだろうが、演技だろうが、善的なふるまいをすればいい。悪という習慣。善という習慣。

 

くそつまらんダサいやつが、つまらんダサいことして、引っ込みがつかなくなって開き直りまくった末にひろゆき的社会が誕生したのではないか?という気がしてきた。ダサさの正のフィードバック。そう考えると、善も悪も、正のフィードバックであるなら同じで、負のフィードバックが大事だなとなる。

 

 

神経精神分析

 

いま、この神経精神分析という新しい領域についての、これよりちょい専門的な本を読んでます。なかなか示唆的です。精神分析(ドグマ人類学)と神経科学、つまり「こころ」と「脳」とをつなぐ研究です。

この著者は意識のある自己証明システム(ホンモノのAI?)を人工的に生み出すことが可能であるという結論を出しているらしく、テクノロジー関連でも重要性は増してきそう。産業がドグマ的に人間をコントロールする技術を発明している(つまり無意識レベルの支配、例えばギャンブラーのフロー状態や、宗教的な熱狂を産業化し、人間のマネジメントやマーケティングに使おうとしている)というK先生の最新研究とも関連しそう。

ニーチェと俗流ニーチェ主義

 

 

道徳、すなわち「善/悪」のゲームはどのようにしてはじまるか?ということをこれほど常識に反して説明できたひといないと思います。そして、あらゆる領域におけるイノベーターたちの素質ともかかわっているように思います。

特に面白いのはやはり、「利益追求」も「無視無欲」も、そもそも「損/得」という低劣な価値基準を前提にしているし、現代ではそれが常識のようになっているけど、その「損/得」の価値基準自体が歴史的な偶然の産物に過ぎないという指摘ですね。みずから「善/悪」「高/低」の基準を設定できない畜群本能をもつ人びとが、「損/得」という他人基準の指標にすがってしまうということですね。

A「ホリエモンはクソだ、守銭奴だ、無私無欲で労働することに美徳があるんだ、ボランティアを見習え」
B「無視無欲でボランティアやってるやつらなんか偽善だろ? 結局金がなければ生きていけないんだから。利益がすべてだよ」

ふつうはこういう二項対立になるわけですが、ニーチェの場合はこの二人のはるか高みから「Aも Bも、お前ら同じゲームの上にいるじゃんか」と指摘するわけですね。

 

 

こうした本来のニーチェは、俗流ニーチェ像とは全く違いますよね。俗流ニーチェ主義者のパターンを一応リストアップしておきます。これらは本当に簡単にハマれる罠です。

⑴ニヒリスト、中二病パターン
「神は死んだ!正義なんか、善悪なんかないのだ!だから好き勝手やればいいんだ!むしろ俺が神だ!」(典型的なパターンなのでむしろ説明がいらないですね)

⑵ニヒリスト、冷笑パターン
「神は死んだ。すべては偽善だ。なにをやっても無駄なんだから、会社に逆らうな、国家に逆らうな、資本主義に逆らうな、システムに逆らうな、俺と同じようにお前もシステムに支配されろ。お前だけが免除されると思うな。社会は厳しいんだ」(こういう連中のタチの悪いのは、マイノリティや弱者だけを攻撃して、マジョリティや強者にはその攻撃が向かないことです。姑息で、卑怯な、僕がいちばん嫌いな人種です)

⑶ニヒリスト、原理主義パターン
「全ては無価値であることが辛すぎる。何かを信じたい、なんでもいい。そうか、これか、これだけを信じれば救われるのか、じゃあこれだけを信じよう、これが絶対的に正しいのだから! これに逆らう奴は生きる価値はないんだ」(補足:「これ」には例えば神、共産主義オウム真理教、科学、AIなどが入ります。一つの価値だけを絶対視するあり方です)

⑷ニヒリスト、バカパターン
「新しい価値は自分たちで作るんだ!だから勉強なんていらない。俺たちはオリジナルでイノベーティヴなことをするんだ!理性なんて、論理なんて、歴史なんてクソだ!自分の感性だけを信じるんだ!」(こういうひとはアーティスト界隈によくいますが、いつも喧嘩になります笑)

僕も含めて、現代人は普段の生活ではみんなこれらどこかの類型に入ってしまう瞬間があるのではないでしょうか?笑

全能性と無

 なんでもできるは、なんにもできないのと同じこと。全能は無である。
 なんでもできるという妄想から出発する限り、現実は変わらない。あるいは、妄想が現実になるときに、悲劇が起こる。

 では、なんにもできないという現実から出発した場合はどうか。

 鬱になったとき、すべてがどうでもよくなる。現実を生きている感覚がなくなってしまう。すべてがメタな世界にみえて、すべてがゲームのようになっていく。離人とは別の、もっと地味で、もっとゆっくり、しかし、もっと執拗に侵食してくような感覚。無から有を生み出したいという感覚。神がもし全能ならば、神はこの世界を創造する必要はなかった、自らのみで自足していたはずだ。神が生み出すということは、神が神ではなくなるということ。神であった何かになること。神と同じように、なにかを無から生み出したいのは、おのれの全能を、おのれ無を、有限な有にしたいから。生み出したい衝動は、また二人になるために必要なことで、それは、防衛本能かもしれない。