無題

 まだ心づもりの定まらない時分、いや既に心は決まっていたかもしれない。もうやめにしよう。社会運動が役ではない。他に往く道があり、その道は険しい。と、片肘をつき手を頬に宛ててぼんやりと眠たげに耽っていた。雨降りならより強く感じられたであろう古い講堂の湿(しと)りと黴が鼻腔を通り身を内側から包み、ほどよい懐かしさを覚えた。構内は湿気の吸音で高密度の沈黙を守っている。重々しい石壁から陽の幽かな線も通わない。窓から僅かに微光が差し暗闇を切りとり薄く縁をなし、吹きあげる埃の舞を描く。またときおり、すぐ右の後ろ手の鉄製扉から学生が遅れてそろそろと入ってくると少し光が覗く。どうも手許が覚束ないから、自堕落な落書きの続きも断念したところだ。
 ふと、目前にマーティン・ルーサー・キングが映っていた。一九二九年、牧師の家系に生まれ、合衆国の黒人差別に抗し暴力ではなく声による歌による戦いをたたかった公民権運動の指導者がそこで、彼の死の前日のスピーチを、いつもの聴衆との掛け合いを演じていた。

Well, I don't know what will happen now. We've got some difficult days ahead.(Amen) But it really doesn't matter with me now because I've been to the mountaintop. (Yes) I don't mind. Like anybody, I would like to live a long life. Longevity has its place. But I'm not concerned about that now. I just want to do God's will. (Yes) And He's allowed me to go up to the mountain (Go ahead), and I've looked over. (Yes sir) And I've seen the Promised Land. (Go ahead) I may not get there with you (Go ahead), but I want you to know tonight, that we as a people will get to the promised land! (Go ahead, Go ahead) And so I'm happy, tonight. I'm not worried about anything. I'm not fearing any man. My eyes have seen the glory of the coming of the Lord!

さて、わたしにはいま何が起こるかわかりません。われわれの前途に困難な日々が待っているでしょう。(アーメン)。しかしそれはもうわたしの問題ではありません。なぜならわたしはすでに山頂に達したのですから。(そうです)。わたしは心配しません。誰しもそう願うように、わたしも長く生きたいと思います。長生きにも意味があります。しかし、わたしはいまそのことにこだわりをもちません。わたしはただ神の意志にかなう行いがしたいのです。(そうです)。神はお許しになりました、わたしが山に登ることを。(もっと話して)。そしてわたしは見渡してきたのです。(そうです)。そして〈約束の地〉を見てきました。(もっと話して)。わたしはあなたがたと共にそこへ至ることはできないかもしれない。(もっと話して)。ですが、わたしは今夜、あなたがたに知ってもらいたいのです。(そうです)。われわれは一つの民として〈約束の地〉へ至るであろうことを。(もっと、もっと話して)。そう、ですから今夜は幸せなのです。何も心配していません。誰も恐れていません。私の目が主の来臨の栄光を見たのですから。

 演説の途中、私の方の空目か、来る死の予感のゆえにか、彼はその眼を薄らと濡らした。私はキリスト信者ではないのだから〈約束の地(プロミスト・ランド)〉など何処にもない。それでもそこで、学内の講堂のスクリーンと、うたた寝のために私の占めていた後方の座席との薄暗い距離のあいまいな間隙で、ついに旧知の友人が再会を果たした。私は古い〈約束〉をついに思い出した。私も彼も、きっとこの日の、この瞬間をずっと待ち望んでいたのだ、と思った。