すこしずつ


諸々の制度が生の現象であることを忘れてはならない。

 法への問いが適切に立てられなければ、生きていることに言及しても月並みなものとなるだろう。だが、わたしたちの時代にあって、法への問いはかくも不適切にさし向けられている。砕けて、こう言ってみようか。法の顔が見当たらないね、法学は科学的な社会に住むわたしたちのものではないのだよ。とすれば、ドグマ学者たちがあつかう生き物とはなんだろうか。規範を生み出す権力と生きものの秩序とのあいだにどんな関係があるのだろうか。

 このように問うことの妥当性を確かめるための手立てはある。それは、複雑に重なり合った水準を混同することのないようにつとめること、そして系譜原理をしかるべき場におくことだ。まず、人間をほかの生きものから区別する特質はことば(parole)である。つぎに、系譜という概念は、さまざまな種のなかで人間にもかかわっている再生産という事実を分類し理解するために役立ちうる。だが、再生産を語ることは依然として人間のことがらである。すなわち、生きものを制定することは、言説にかかわることがらであり、人間であることを前提としている。

 こうして人間であることとは、「話す生き物(le vivant parlant)」であることだと、はっきり定義されなくてはならない。この指摘を考慮にいれたのなら、次の問いがいかに困難であるか、その核心を発見するだろう。どうして、どのようにして、人間の再生産についての問いかけは法規範の根拠と固く結びついているのか。

 すなわち系譜学は、原理的に、一連の生物学的事実のみを対象とするのではなくて、人間が生き延びかつ繁栄するために製造された制度的システムの全体を対象としている。そうして、系譜学は本質的な点に関わっている。古典的な諸社会においても問題となっていたように、近代性が手をつけることを避けられなかったその点とは、生を生たらしめるもの、である。あるひとりの主体のための系譜的設置が失敗するたびに、「その生は生きない」のだ。このことは社会的レヴェルの課題だ。つまり、生を粉々に踏みつぶすか、それを生かしめるか、ということが課題なのである。なぜなら人間の肉体を産み出すだけでは十分ではなく、それを制定しなくてはならないからだ。この『第IV講』では、オーストリアの小説家キュルンベルガーから借用した「生が生きない(Das leben lebt nicht)」という言葉について考えてみる。この言い方が示す領域こそ、「生きものを制定する」というタイトルが告げる問題系が位置づけられる場所なのだ。

 制度的な絆を製造すること、これが系譜の働きである。系譜は生の糸を維持し、主体をその種のしかるべき割当へと立ち戻らせ、社会に生きた資材を与える。今日この絆についての研究をするなら、生物学的なもの、社会的なもの、無意識的なものを関連づけ、これを基盤にして法の機能を再考することになるだろう。法の機能は、その本質において、人間のこの三つの徴を「人工的に」生産することにあるのだから。

 

ピエール・ルジャンドル『伝承の高価な対象』から拙訳

 

少しずつ、日記を再開します。